fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

世代を知るということ

世代について語ろうとする時、参照すべき代表的な資料を読まずにそれをしようとするのは無謀であろう。 なぜなら筆者は自分が産まれ育ち今があるその時代しか「知る」ことはなく、他の時代については「知らない」のであるから。 それでも敢えてそれをしよう…

結論を出すということ

結論を出すためには、何が必要だろうか? それ以前に、文章を通して何かについての理解へと誘うということはどのようなことなのだろうか? 前回の記事において私は、このブログの目的は細部の観察からではなくあるものをそのままに全体の形を整えることだと…

ゴールのないヴィジョン

私がこれまで書いてきたことは、ゴールのないヴィジョンなのではないかとふと考えた。 学術では人は細部に分け入りそれによってその成り立ちを明らかにしようとする。 そこでは対象がなんであろうと細分化された何かに特権的に光を当てるということ自体が営…

生きることと知、技術について

ただ何もない、 世界がどうあるべきだ、世界はこうあるのだ、 どちらも確実性に欠けている、 我々に言えることはほんの少ししかないどころか、何か言わんとすること自体陥穽に陥っている証拠である。 ならば美しいところだけ、もしくは醜いところだけを凝縮…

メッセージと主義、そして概念について 1

メッセージとは存在の動きに一定の方向性を与えんとすることであり、愛は、ヒューマニズム(ism)は、手堅く見落としを拾う。 だがここで注意しなければならないのは、メッセージが概念化されて主義となった時のその穏健さの丸みであり、不動の重みである。 そ…

自尊心について

人は自らの自尊心のためなら何でもする。 他人を傷つけるのは最も簡単で手っ取り早く安上がりな方法である。 それは生存本能など科学的なキーワードでは説明しづらいものである。 他人を傷つけるという言葉なら穏やかだが、実際は他人の心身の安全を脅かすよ…

問題を広げることについて

問題は、広げようと思えばいくらでも広げることができるものである。 例えば、何故筆者はこのような問題を今回取り上げようと思ったのか(原因を探る方向性) 例えば、筆者の意図はどこに置かれていると想定して読み進めるべきか(読解力、またはコミュニケ…

心があるという結論

心があるという結論に、誰か耐えられる者はいるのだろうか。 感情とは理性と同様に扱えるものなのであろうか。 巷に出回るブログなどではルサンチマンや社会現象を当事者目線で上手い具合に切り抜き、その形によって読者にすんなりと了解を与えることに長け…

価値(観)の共有について

疑いようがないとされている価値(観)の共有の範囲を拡大し、その価値のプライスを下げ普及させて世界を「善」なる下敷きの上に敷こうとする方向性とは真逆に、ニッチな価値観を提出しようとすることができるのもまた、価値の創出行為である。 前者は、歴史…

知るということを知るということ

知るということが、精神に何がしか物的な実在を発生させるものであるとするならば、私は知るを支持しようと思う。 だが、もしそれが単なる精神の現実世界への拡張というような空間の問題として捉えられるならば、私は知るを支持したいとは思わない。 現実の…

善と悪

善と悪は対義語だとふつう考えられているが、果たして本当にそうだろうか。 宗教的な価値観の体系が社会をくまなく支配している時代や場所においては、善と悪は対義語と言っても間違いではないのかもしれない。 しかし現代のこの社会においては、それらから…

奪い合いと有限性

奪い合う、それが世界だ。 これに反論できる者はいないだろう。 自分を犠牲にして他者に尽くし見返りを求める人もいる。 無関心を理由に我関せずで安寧を保つ人もいる。 誰が強者で誰が勝者なのか。 誰が弱者で誰が敗者なのか。 こんな議題はこのブログにそ…

価値と欲望

唐突だが筆者は、価値というものは絶対的に、つまり他との相対的な関係性に於いてではなく、自立して存在するものだと信じていた。 より正確に言えば、そのようなものこそが価値の定義であり、概念があるからには実在するものだと無意識に思っていたようだ。…

点線のブログ

線とは何か。 数学の話ではない。 しかし援用はするかもわからない。 この問いはこのブログの今までの流れからすると唐突な話題に思われるかもしれないが、そんなことはないのである。 概念はいかに形成されるか。 大きすぎる問いだが、そこで分類という作業…

文脈と目的論について

思惟とは考えるという営為による形成物である。 ...その材料は概念だが、概念は現実や現象から抽出されたものである。 という前提でさて、思惟における形成物とは何だろうか。 ...という“なんだろうか”系の問いは脇に置き、今回はその評価基準について考えて…

真実と虚構について

この世の中を回している原動力はなんなのだろうか? 言うまでもなくそれは真実である。 なぜならば真実とは表の裏のそのまた裏のそのまた裏の、、、、を突き詰めたところに僅かだが強烈な光を放ちつつ隠されているものだから。 果たしてそうであろうか。 哲…

現実と虚構についてのメモ

人は現実と虚構の一致は求めておらず、虚構を虚構として宙に浮かせて眺めることを楽しむ。 その為、虚構を形作るためには現実からの距離が絶対的に必要であり、そこで距離とは時間的・空間的(量的)なものなどが考えられる。 創作においてもこれは同様であ…

生まれることと死ぬこと

生まれることは創造に例えられ、創造は生むことに例えられる。 死ぬことは消滅であり、忘却されることである。 生きるということを極論するとそのふたつについて考えざるを得ないというのが通常であろう。 だがそのふたつしかないと考えるのは妥当であろうか…

意味や重さで測れない価値はあるのか

意味や重さで測れない価値はあるのか。 一つのとっかかりとして構造という概念が浮かんだ。 価値が当てはめられる構造としては事物のヒエラルキーが考えられる。 ヒエラルキーは順序付けられた価値の体系であり、上位概念、下位概念の相互関係を基本とする。…

技術とは何か

技術とは何かの目的や価値観に奉仕する行為の性質であると思われるが、通常は巧みであること、上手であることを指すことが多い。 今回は技術とは何かを考えることによって技術を高める方法論を少しでも開拓しようという技術的なブログである。 まず、技術と…

認め合うということ

‪認め合うということは、同質性の確認ではなく異質なものの発見と学びだと常日頃考えているのだが、同じだと思っていたものが違った時や違うと思っていたものに同じものが含まれていた時の方がその認識が深いのではと感じることがある。 ただ問題は、その際…

考える人

考えるということを自分から取り去ったら、何が残るのだろう? というくらい、自分にとって考えることは自己の存在にとって重要であるのだが、他人にとってはもしかしてそうではないのかもしれない。 知識を蓄積して再構成することが根幹にある人間もいるで…

本当に大事なこと

これはごく個人的な話になるはずのトピックだが、本当に大事なこととは、一番真剣に考えなければならないこととは、なんだろうか。 世論をぶった切り数々の物騒な事象を産み続けるあれらの巨大案件か。 それとも今日の夕飯のネタをどこで買うかか。 うっすら…

わからないということ

わからないというその一言を求めてネットサーフィンをしたが、どこにも見当たらない。 本当は闇より暗く黒いものを、グレーゾーンに放り込むことで我々は生きている(定型文)。 グレーゾーンに光を当てればもうそこはグレーではない。 だから私は言おう、た…

リアリズムとロマン主義についての覚書

理想主義の対義語はなんだろうか?現実主義? 直訳するとリアリズムになるのかもしれないがおそらくそれは文学史上の専門用語であって理想主義の対義語ではないだろう。 見た目綺麗事の並んでいるように見える上っ面な世界観を見下すものとしての現実主義。 …

コンテンツと眼差しについて

価値観とは視点である。 価値観とは眼差しである。 というテーゼを置いてもここなら異論はないと思う(あるだろうか?)。 しかし今回の内容は少し先を行く。 今、コンテンツというワードを見ない日はない。 皆がこぞって注目を集めそうな面白おかしいコンテ…

本質についての覚書

本質とはなんだろうか。 言葉遊びと取られてしまいそうだが敢えて言い換えてみると、本質の本質とはなんだろうか。 通常、本質と言う時は、物事や人の深い所にあり行動や思考に最も大きな影響を与える何かのことを指すのだろう。 表層であるとかポストモダン…

覚書

真実と信念の違いとは何だろう。 この世の真実が何らかの方法でわかるという認識自体、信念であるような気もする。 仮に真実がわかるという立場を取るとすると、それが真実であるからには普遍的であり、認識を得た者は神に等しく真実の価値を喧伝できるとい…

自然と世界についての覚書

自然というものはまだ、完全に人間の思う通りにはなっていない。 そのことを時々思い知らされる。 しかし、元はと言えばこれもあれも自然ではないかと、ふと考える。 人間を含めた生き物、特に動物だけが自然なのではないし、植物や大気や宇宙や微生物や、、…

価値についての覚書

価値とはなんだろう。 普通に考えれば株価のようにマーケットにおける相対的な価格を指すのかもしれない。 不動産や金銭などの財産に価値があるというのは当たり前すぎる話でもある。 それは俗世だとして科学や信仰や芸術には独立した価値があるという考えも…