fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

知るということを知るということ

知るということが、精神に何がしか物的な実在を発生させるものであるとするならば、私は知るを支持しようと思う。

だが、もしそれが単なる精神の現実世界への拡張というような空間の問題として捉えられるならば、私は知るを支持したいとは思わない。

現実の世界と精神世界の関係に於いて、知るはどのようにあればいいのか、ありうるのか。

いうまでもないことだが、知より大きな括りで考えて真実という曖昧なものも、単なる概念でしかなく、もしかすると言葉でしかないかもしれず、そこらに落ちていたり販売されていたり譲渡されうる物体ではない。

しかし、知が発生するものであるのに対して、真実はもともと存在するものであるか、または存在しないものである。

その中身がなんなのか、どんなものなのか、それを記そうと人々は躍起になる。それを、知るために、そしてそれを知りたいと欲する人々のために。

この文章自体、知を求めているではないかという指摘もあろう。その通りである。

しかし、知が、上述のようにその本質的に獲得されるものである時、それをしないことをなぜ否定できるのか。

獲得しろという命令形は成立し得ない。

命令形が成立するのは、「これを獲得しろ」と目的語を備えている場合だけなのではないだろうか。

目的語を既に備えた知は厳密な意味での知とは言えないように思う。