結論を出すということ
結論を出すためには、何が必要だろうか?
それ以前に、文章を通して何かについての理解へと誘うということはどのようなことなのだろうか?
前回の記事において私は、このブログの目的は細部の観察からではなくあるものをそのままに全体の形を整えることだと書いた。
しかしその後に続けた描写によって少し混乱を招いてしまったかもしれないと反省している。これを契機に少し考え直してみようと思う。
論理的に優れた文章、もっと言うと論理的だと思わせる文章に不可欠な要素は、細部における情報量とそれら情報同士のの凹凸関係の提示にあると筆者は考える。
まず、細部が細部たるにはそれが認識され名前が与えられることが必要である(情報)。
そして周囲とそれをつなげることによりその性質を明らかにしようとする。その際必要なのは凹凸で、情報を盛られたある現象・対象は凹凸の関係性の中に置かれる。
そしてその状況、関係性から法則性を抽出し、現象・対象において既存であるところのルールとして認識する。
さらにこの応用としてはこの法則を他の現象に当てはめる等、アナロジーによる適用範囲の拡大などが考えられる。
これを全て文章によって読者へと伝えるためには、論理の凹凸を情報を主語としてなぞれば良いのである。結論を出すということがこれに等しい。
さて、ここからが問題である。
これ以外の方法で、非論理的でない方法で、文章によって何かを伝えることはできるのだろうか?
断っておくが、文章とはここでは詩や小説などの文芸作品を除く。
論理性には細部が必要である。それには疑いがない。
もっというと俯瞰視する場合や極端に単純化された図式ですらその構成要素は細部であるとも言える。
そしてそれは事実と同一視され得る。
例えば、現代において地球の存在を疑う人はいない。
俯瞰した地球の姿を見ることに疑いを持つ人もいない。
そして、全ての人間の住処が地球であることは論理ではなく事実である(宇宙に人間がいなければの話だが)。
ここでは事実と論理が等価であり重なり合っている。
これはいうならば数学の定理のようなものではないだろうか。自明であるが故に見えづらい前提と重なるところが多いように思われるからだ。
詳しくないので間違えていたならばご指摘いただきたいが、定理の先にある数々の証明と計算には細部と全体の整合性こそが命である。
“どのように“人は地球に生きるようになったのか?に対する答えはいくらでも考えられ得るし、ある程度の正しさを持つ説として有力なものが今の学説となっているのであろう。
しかし、より根本的な“なぜ“、に答えられる学説はない(宗教を除くならば)。
このように、事実の存在の前提を論理とするか直感とするかで、だいぶ世界の見方は変わるのである。
どうであろうか。少しは説得力を持って論理を使わずに説明できたであろうか。
もしますます混乱が深まるだけであるならば致し方ないが他の方法も探る必要があるかもしれない。
しばし時が過ぎるのを待つこととしたい。