fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

2018-01-01から1年間の記事一覧

本質についての覚書

本質とはなんだろうか。 言葉遊びと取られてしまいそうだが敢えて言い換えてみると、本質の本質とはなんだろうか。 通常、本質と言う時は、物事や人の深い所にあり行動や思考に最も大きな影響を与える何かのことを指すのだろう。 表層であるとかポストモダン…

覚書

真実と信念の違いとは何だろう。 この世の真実が何らかの方法でわかるという認識自体、信念であるような気もする。 仮に真実がわかるという立場を取るとすると、それが真実であるからには普遍的であり、認識を得た者は神に等しく真実の価値を喧伝できるとい…

自然と世界についての覚書

自然というものはまだ、完全に人間の思う通りにはなっていない。 そのことを時々思い知らされる。 しかし、元はと言えばこれもあれも自然ではないかと、ふと考える。 人間を含めた生き物、特に動物だけが自然なのではないし、植物や大気や宇宙や微生物や、、…

価値についての覚書

価値とはなんだろう。 普通に考えれば株価のようにマーケットにおける相対的な価格を指すのかもしれない。 不動産や金銭などの財産に価値があるというのは当たり前すぎる話でもある。 それは俗世だとして科学や信仰や芸術には独立した価値があるという考えも…

未知についての覚書

未知なるものは、こんにちは未知ですという顔を下げて現れない。 人は既知を参照して生きているのだから。 歴史的に見れば既出であり、新しくはなく、単に個人の無知に由来する「未知」の方が圧倒的に多いのだろうが。 ・・・ 歴史は繰り返すというが、果た…

アマチュアであること、技術を備えていること

唐突だが、自然とはアマチュアなのだろうか。とふと考えた。 それは単なる言葉のアヤなのであるが、世界(自然)を見つめ自己のために自然の改造を不断に試みる人はプロなのだろうか。 などというと汎神論や神道などの宗教が思い浮かび宗教についての議論を…

覚書

世界観と身体観(肉体観)は無関係ではない筈だ。 現代の日本の世界の表象はゲームとアニメとキャラクターのそれで埋め尽くされているように思える。 戦場と救済のフィールドが資本主義の生み出したコモディティーのなかに見出されて消費者という勇者を奮い…

真善美についての覚書

ある日積ん読を消化しようと優先順位第一位の本を手に取り読み始めようとした時、 ふと、自分は何を一体読みたいのだろう?という疑問が湧いてきた。 真善美じゃないの、ということでその場は落ち着き、後日改めて考えて見たところ、 善と美については人々は…

問題についての覚書

問題を解決しようとするのが科学であり、 その問題が解決すべきであるかどうか、解決の仕方の是非を問うのが倫理であり、 解決の方法や在り方の当否を問う新たな問いを創出するのが哲学である。 私が最初に気になったのは、ある問題に対して答えを出し解決し…

リアリティーについての覚書

リアリティーというものが、諸感覚を通して得られたデータ(?)が統合された像のようなものだとして、人はそれに対してなんらかの影響(作用?)を及ぼそうとする欲望というのか意思というのか、両方か、とにかく動機を保持している。 その像が投影される場…

視覚芸術としての踊りについての覚書

踊りというものはその鑑賞者である限り直接的には視覚体験(視覚芸術)にしかならないことはずっと以前から気になっていた。 踊りとは何か、と問う時、素材を身体に取り時間軸上における形の変化すなわち動き(!?)をメインに展開したものである、と答える…

覚書

なにもクラブに限ったことではなく、音楽に合わせて躍るという営みは古今東西行われている。