本当に大事なこと
これはごく個人的な話になるはずのトピックだが、本当に大事なこととは、一番真剣に考えなければならないこととは、なんだろうか。
世論をぶった切り数々の物騒な事象を産み続けるあれらの巨大案件か。
それとも今日の夕飯のネタをどこで買うかか。
うっすらと膜のように心を覆い続けてきた疑問である。
自分は偽りの課題に時間を浪費してはいないか。
世間受けの良いものや日々の栄養となるものを結果的に最優先事項として選び取ってはいないか。
そもそも真剣に考えるとはなんなのだろう。
表層的な理解から始まり、目的地を設定し、そこに至る道程を大まかにそして緻密に具体的に計画し実行に結びつけること。
そう、問題意識の話をしているのだ。
問題意識の主は当然、わたしである。
わたしはもしかしたら、新しい荒れ野の発見や新しい遊園地の建設には向いていないかもしれない。
そういう逃げも油断なく打って来た。
その鉄の網をチクチクしながら跨ぎ敢えて拾ってみる。
各種表現へのメタな視点の提供。しかし一体なんのために?
分析し課題の露出度をあげる。解決は人任せ?
創造。秀でた人々の中で自分に何ができるのか?
一歩離れて考えてみると、自分という存在と、本当に重要なこと、とは、不可分とは言わないが、様々な距離を放ちつつ繋がっている。
手繰り寄せる必要もないほど近い問題。
それが肉体だと思って来た。
生命の基盤であり自分という存在のすみかであるのだから、と。
でもしかし。
肉体は近いようでいて遠い。
日々動く体のその仕組みなど何ほども知らない。
切り取り凝視しなければ何もわからない。
感情もまた同様である。
強い悲しみ(痛み)や喜び(興奮)のない時、自分がどこにいるのかすらわからず平気で暮らしている。常に何かに気を取られながら。
では結論は、自分自身を知ること、になるのだろうか?
自分というものをは知り得ないということを知ること?そうなのだろうか。
このような紋切り型に帰着させた時それらは依然として問題であり続けることは可能なのだろうか?
おそらく答えはノーである。
問いを洗練させること自体が問題の解決と限りなく重なる。
哲学の方法論であり限界はあるだろう。
語り続けることで何かを浮き彫りにする文学的なアプローチもある。
逆に五感と知能に語りかけて来るものを測る科学的なアプローチもある。
自分には何ができるのか。
なんでもできるということは残念ながら、ない。
遠い存在である肉体と、近さの問題ではないのではないかという問いを、
どこかで力技で接着させなければならない。
ならない?
わからない。
表現とは、形を取らなければならない。
形作る過程における飛躍に私の創造はある。
しかしその過程自体が既存の、既に引かれたレールであるところが問題である。
疑問から始めるならば、問題意識から始めるならば、過程を自分で作らなければならないのではないか。
流されながら、飲み込まれることなく。
一旦筆を置く。
ところで思惟は肉体に宿るのか?それともテキストに宿るのか?
肉体には何が宿るのか。