奪い合いと有限性
奪い合う、それが世界だ。
これに反論できる者はいないだろう。
自分を犠牲にして他者に尽くし見返りを求める人もいる。
無関心を理由に我関せずで安寧を保つ人もいる。
誰が強者で誰が勝者なのか。
誰が弱者で誰が敗者なのか。
こんな議題はこのブログにそぐわないかもしれない。
思索が無効化される気配を早くも感じる。
強者弱者の所有物は量で測れる。
勝者敗者の判断は何者かによるジャッジメントを待たねばわからない。
ここで筆者の心理を吐露することで何かが起こるのだろうか。
違うであろう。
何かに対して抗議することで権利の拡充を図るのか。
無駄であろう。
関係性といえば昨今は距離感を持って接しろというドグマが甚だしくかまびすしい。
その主張は、近寄るな、という拒絶のポーズとどう異なるのか微妙なところである。
距離さえ保てれば良好な関係が保てるという結論のようだが、これも疑わしい。
見えないほど、聞こえないほど遠くからなら干渉がましい批判をすることは自由であるかのように事実は雄弁に語っている。
内心の自由と表現の自由、その問題とも関係してくるかもしれない。
では距離感とは何なのか?
ネットやSNSで近づきすぎた関係性を無理やり離そうとする徒労にしか筆者には見えない。
挨拶もなくタイミングも構わず飛び込んでくる人格否定。
奪い合いもまた、無限の(またはそのように見える)リソースが無償で提供(または暴露)されることが当たり前のインターネット社会の発達と一見逆の方向性にあるようで無関係ではないかもしれない。
皆が欲しがるものは大体同じで、ニーズは集中し、希少価値には高い値が付く。それが顕在化した面もあろう。
無論、世界(というものが限定できるとして)の存在がある限り、それは有限であるし、無限に生きるなどということは自己矛盾である。
我々は生き物であるから(?)
ということになっている。
では無機物は無限に生きられるのかというと、筆者は不勉強で全くわからない。有機物よりは長命であるというくらいの認識しかない。
奪い、与えず、与えられる。
その方が良いに決まっている。
ではここでは何ができるのか。
何かを奪われたという時、所有物を無承諾のうちに一方的に取られ利用され、損をしたという状況が考えられるが、
そこに有限性という条件がなければ、話は変わるのだろうか?
筆者にはそうは思えない。
有限性は物理的な証左にはなるかもしれないが、実際に非難の声をあげているのは、自分が損をしたという損得勘定、損得に関わる感情ではないか。
お得感という言葉もある。
実際にそれが得であるかよりも、得をしたという感覚が生ずることが大事なのである。
ではどうやって生きればいいのか?
相手にお得感を与えながらその実奪い続ける。
何と有用な結論ではないか。
その際、お得感を演出するためには決して無限に与えてはならない。
そして少なすぎてもダメである。
もとい。
関係性を保つためには、いな、一対一の関係性を維持するためには、複数の繋がりを常に有効化しておかなければならない。
これもよく言われることだが、距離感説よりは説得力があるように思う。
実際は有効化なぞ行わずとも一対一の関係性は抽象的思考の産物であり、人が生きること、世界が存在することは、一ではない。
ということを踏まえると、人が有機的に生きるためには、与えられることに感謝をすればいい、、などと言い始めると世俗的な宗教、あるいは倫理じみてくる。
奪い合いの中でいかにサバイブは可能か。
もう十分答えは出たであろうか?
具体的にどのようにすればお得感や有り難みを与えながら奪い続けることができるのか、それを考えるのは企業家や経営者などの仕事であろう。
家庭の経営や個人の仕事などミクロな視点においても同様で、それぞれの資産や能力に応じてできることをやって行く他ない。
もちろん、個人の愛情も思索も有限である(物理的な証左)。
奪って来た相手に対して与えるほど愛もないのが普通であり、与えない相手に与え続けるほどの時間も余裕もない。
では持てる者から奪えば良いのではないのか。
と考えると政治思想の力学に足を踏み入れることにもなりそうだが実際は、持てる者に人は貢ぎ(お得感)、持たざる者は平気で踏みにじり利用する(搾取)。
いかにして持てる者になることができるのか、これはまた成長という呪縛に過ぎないのか、奪われ枯渇し滅亡しないための必要「悪」であるのか。
奪う能力や技能もまた問題になろう。
物理的に強奪すれば罪になるが、精神のそれはなぜか罪にならない。
また、何が提供されているのかを発見し見極める能力もまた、持てる者になるための条件だと思われる。
もっと基本的な問題として、何が必要なのか、何を欲しているのか、何が求められているのかを明瞭にできない限り、不毛な探究は続くように思われる。
何でもいいから奪いたいという態度も結果的には有効である場合もあろうが、リスクも増えて非効率(効率がこの思考の目的だとするならばだが)である。
傷つけることで一方的に奪おうとする者からは身を引き離し隠れ告発し、静かに豊かに与える者にだけ近づけ。
皆と同じ価値のピラミッドの表層にすがりつくことで強者に更に力を与えるな。
それが今回の結論である。
あとは読者自身の頭で考えてもらう他ない。
私とて与え続け奪われ続けるのは真っ平なのであるから。