コンテンツと眼差しについて
価値観とは視点である。
価値観とは眼差しである。
というテーゼを置いてもここなら異論はないと思う(あるだろうか?)。
しかし今回の内容は少し先を行く。
今、コンテンツというワードを見ない日はない。
皆がこぞって注目を集めそうな面白おかしいコンテンツを拾おうと目を凝らして街を歩いている。
それはそうだろう。
だが、本当に商売になっているのは、人々の視線なのではないだろうか?
誰が見ているか。
何を見ているか。
いつ見ているか。
どんな風に見ているか。
コンテンツ自体よりそちらの方に目が行っている自分に気づくことはないだろうか。
(そしてそんな自分が見られている視線を、肩の何処かに感じることはないだろうか。)
つまり、売れているのはコンテンツではなく視線なのだ。
インターネットという全世界的なネットワークの出現で可能になったSNS。
ここで注意すべきは、各SNSは、開かれているようで意外と閉じられているということである。
共通の土台になんとなく集った人々がシステムに優しく招待され囲まれている安心感。コミュニティ感。
全てを見ろと言われたらそれは不可能だと答えるしかないが、対象(世界)を限定すれば話は少し変わってくる。
言い換えると、「どこで見ているか」が、見られていることは、(上述の他の要素に比べて)あまりない。
価値(観)と視線との関係。興味深いテーマではないだろうか?
(既に誰かが論じていることであろうし、この考察もその範疇に収められてしまうだろう。
しかし、ある考察(特に時代を代表するような優れた論考)に要素として包摂されてしまうということは、そのテーマが済んだこと、処理済みのものとされてしまうこととイコールだとは思わない。なぜか、その理由はまだハッキリと説明できないので追い追い後日。ということにする。おそらく「文脈」に関わる理由であると思われる。...文脈とは何か?)