fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

価値(観)の共有について

疑いようがないとされている価値(観)の共有の範囲を拡大し、その価値のプライスを下げ普及させて世界を「善」なる下敷きの上に敷こうとする方向性とは真逆に、ニッチな価値観を提出しようとすることができるのもまた、価値の創出行為である。

前者は、歴史の流れの中で"標準的"だとされてきたもの(認識)のうち最新で最善の価値を世界に根付かせようとする試みであり、後者はそもそも標準的で最善であろうとすることを放棄した密かな試みである。

しかしながら、両者において共有という現象はなぜか大いに称揚される。

言い換えると両者の間には、共有という形態にどのような変化を与えようとするかという違いが見られるように思う。

共通、共有、共用、などの言葉には、ある特定のグループを属性によって分類し「全体」がマップ化された視野のなかで囲い込みが行われている空気がある。

囲い込みという言葉を使ったが、特に否定なわけではない。

基、最善は歴史が証明済であるという大前提に則るか則らないか、いやどちらにしても歴史の参照は必須ではないのか。

なるほどそれは否定し難い。

個々人が生きている現在という、歴史と比較すると相当短いスパンの中から判断できることなど何もないという立場が大勢であろう。

ただ、世界はただそこにある、そのままの姿で、というのも事実である。

そして人は常に囲い込みたがる。

だからこそ昨今の流行語に「ゆるふわ」などの言葉が登場するのであろう。

では、必要が発生した時に一時的な囲みを設定すればいいと考えてみたらどうであろうか。

セーフティーネットなどの考え方はそれにあたるかもしれない。

標準イコール最善と解釈するか、標準イコール最低(ニーズ)と解釈するか、若しくは世界は覆われないと考えるか。

そもそも世界という概念が覆うことは可能であるという前提の上に存在しているではないか。

ほぼ同義、トートロジーだと言ってもいいかもしれない。

世界以外に、何かあるのか?(世界がないという無は本当にあるのか?)

世界を世界で満たすという一見矛盾した行為に人々は耽っているのではないか?