考える人
考えるということを自分から取り去ったら、何が残るのだろう?
というくらい、自分にとって考えることは自己の存在にとって重要であるのだが、他人にとってはもしかしてそうではないのかもしれない。
知識を蓄積して再構成することが根幹にある人間もいるであろうし、外界を感じ取り素直に心を形容詞で満ち溢れさせる人間もいるかもしれない。
当然、他にも様々な在り方があるのだろうが想像は意外にも難しい。
しかも、考えるといっても傾向や形式はそれぞれであろう。
つまり、考えるという営みを普遍的と捉えるのは正しくないのではないか?という疑問が頭をもたげたのである。
考えれば議論ができる。共感を得たり異論が起きたりする。
それはそうかもしれないが、考えるという活動自体に同等なエネルギーを持ち込むような空間に自然に交わろうとは思わない人間もいるだろう。
そこに思い至ったのである。
言語で表現された考えというものはすべからく考えるという営みであり相互に交流可能なのであろうか?
(もちろん詩歌や文学が種類を異にするというのはわかる。)
そこが少し疑問である。
論理というものがなかったら?
そもそも自分が書き溜めて来たこのブログは全く論理的でないではないか。
そのような文章をもって、今まで読者に何かを伝えることができた試しはあったのか?
わからないが、論理でない何かであってもよい、これが私の考えであり、頭の中である、と言うほかはない。
という文章を今日はここに寝かせておくこととする。