生きることと知、技術について
ただ何もない、
世界がどうあるべきだ、世界はこうあるのだ、
どちらも確実性に欠けている、
我々に言えることはほんの少ししかないどころか、何か言わんとすること自体陥穽に陥っている証拠である。
ならば美しいところだけ、もしくは醜いところだけを凝縮して刺激物として娯楽のように摂取すれば良い。
自分を苦しめるものは遠ざけ、それでも付き合わざるを得ないものは上手くやり過ごし、些細な喜びは増幅装置を使って味わい尽くし、
淡々と日々のルーティーンを回し、そして視野の隅に空虚が入り込む。
そう、それは生きると言うことの技術を習得したことを意味する。
本来技術を身につければ世界は広がる筈だが、なぜここでは何かが逆に減って行くのだろうか。
それとも、力と力が打ち消し合うように、減っているように見えて実際は何かが増えているのだろうか?
いずれにせよ、そこには生きると言うことの幸福で不幸な自己目的化があり、全ては後付けの背景として人生の彩りとなる。
にも関わらず、何々にも関わらず何かを成し遂げた、など、所与の条件からの分離に光を当てる実例はありがたがられ、人生とその技術は常識程度の困難さであるという不思議な前提が暗黙のうちに共有されている。
なぜそのようなことが起こるのだろうか?
勿論、それは我々の生きている社会(と想定されているぼんやりとした限定)の質と無関係ではない。
文字通り今日を生きることすら困難な人々や地域の存在は悲しいほどに自明であり事実である。
しかしここでは特定の社会の性質について論じるのが目的ではない。
生きる技術を一旦習得したら我々は、その波に乗り続けて最期を迎えるまで何とかして持ち堪えようとする。
そしてそこで知性を使い果たすのだ。
ところで、知識人や大学人、研究者は学術とその周辺を生活の糧としており、今を生きる最高の、究極の知性はそこに宿っていると思われている。
身近なところでは生活の知恵やライフハック、最近のものでは集合知など、知の在り方は様々で名付けられもしているが、大学・研究機関が知の権威たるランドマークであることに変わりはない。(勿論、宗教のスピリチュアルな悟りや信仰も知に含めるならば、話は変わってくるけれども。)
ここで本稿のテーマがおぼろげに現れて来るのだが、それは、知と技術との違いと共通点である。
技術にはそれぞれの目的が外部にある。
知の目的は第一義的には知そのものである。
この比較から、生きる技術の自己目的化とはつまり、生きることそのものだということが言える。
生きる技術を習得して生きることに満足し埋没した時、高度な知という必要以上の知は不要となる。
それ以外の自己目的化できない技術は、経済的な利益や精神的な贅沢に対する欲求の充足に充てられるので、それらを習得することの動機づけは高い。
ではしかし、自己目的化できる知に対して自己目的化しない知もまたあると考えざるを得ないのは、どのような状況がそうさせるのであろうか。
他者を攻撃したり、矯正したり、啓蒙したり、社会をより良い方向へ導こうとしたりと、目的が外へと向かい張りつこうとする。
そこにメッセージ、主義主張が発生する。
本来、知にメッセージという目的、ゴールは含まれない筈である。
生きる技術のように目的が先に生まれているのならば後付けのメッセージは不要であるし、逆にその目的を無意味で無内容だと決めてしまえばメッセージ自体が意味を成さなくなる。
このように、知の技術という派手な存在を前にするとメッセージさえもが前後左右にウロウロと居場所を求めて彷徨い始める。
そう、主義主張は飾りのようなものなのである。
倫理とは?暴力とは?善悪とは?正義とは?それら各論を問い論じたとて、問題は変わらない。
それが現代の知というものの在り方なのではないだろうか。
そしてまた、知の在り方という時、そこには既に外部に向けられたメッセージめいた何かが潜んでいる、のかもしれない。
一旦筆を置く。