メッセージと主義、そして概念について 1
メッセージとは存在の動きに一定の方向性を与えんとすることであり、愛は、ヒューマニズム(ism)は、手堅く見落としを拾う。
だがここで注意しなければならないのは、メッセージが概念化されて主義となった時のその穏健さの丸みであり、不動の重みである。
それは戦いに使われて初めて勢いを得、認識を勝ち得る。
平和のための技巧や嘘の存在がしばしば奇異に映るのと同じように、目的を内包し得ない火球は互いに結合し成長し焼き尽くすことはできても、また生える意味と叫びを根絶させることはできない。
何者からも与えられていない何かを、対象はそのままに抽出や総括という技術によって生み出すこと、与え与えられるというプロセス、奪い奪われるという事件を経ないで生産を行うこと、それはほぼ罪に等しく扱われる。人は貸し借りをしなければならない存在である、繋がりの中にしか生きられない、そのような強いメッセージを否定するかのように見えるからである。
本当はそのような愛の成立以前に食い物が必要であるのだが、人権という概念は食うが満たされた後に強化されるものと捉えられているため、そこに齟齬が生じる。
いやもしかするとそれは同時に発生する繋がりであるかもしれない、食う食われる、貸し借り。
歴史的な背景に詳しければ、人権の沿革から無理なく結論を引き出すこともできようが、それがままらならない筆者は、こう言うことしかできない。
奪い奪われながら、貸し借りをしながら、自由であることは本来的に不可能であり、まさにその不可能こそが自由であると。
世俗的な自由はもっぱら制限を伴うものであり、それが無限であることはそもそもあり得ないからである。
そのような制限のない概念的な存在を、暴力的なほどに強いものだと勘違いする者も出るのは当然かもしれない。不完全ながらもそれ自体に於いて完全であるが故に憎まれ、装置的な何かだと誤解されることもあるだろう。
だからこそ概念を用いてなにかを行う時、人は注意深くあらねばならない。
何を行うか、何のために行うか、どのような影響を(意図なくしてだとしても)与えるか。
それはケースバイケースであり、具体的にこうすればよいというようなルールは、作為的にでなければ作ることはできない。
逆に言うと作為的にであれば作ることは可能なようにも思われる。
存在に具体的に奉仕するために。だがそれが正しいのかどうかはわからない。概念というものは、基準を持たないものであるから。
メタであることは、人を傷つける。
メタであることは、優位であることとは異なる。
俯瞰しているからといって俯瞰されたものより価値があるというのではなく、単に性質が異なる。
例えば他の学問、例えば統計学や検索機能なども俯瞰しているとも言えるが、それらは対象を直接取り扱っているために憎悪の対象とはなりにくいどころかむしろ逆で、対象に寄り添っていると好意的に捉えられることすらある。
メモを書き貯めた乱文であり思考も途上だが一旦公開することとする。