fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

問題を広げることについて

問題は、広げようと思えばいくらでも広げることができるものである。

例えば、何故筆者はこのような問題を今回取り上げようと思ったのか(原因を探る方向性)

例えば、筆者の意図はどこに置かれていると想定して読み進めるべきか(読解力、またはコミュニケーションにおいて要請されると想定されているもの)

例えば、このステートメントのソースは何か(一般的に論理立った文章の構成要素と考えられているもの)

等々、問題は幾らでも考えることができる。

問題の定義とは何か、という問題すら考えることは可能で、あながち無意味でもないように思われる。

では今回の問題はどこに焦点を当てるべきなのであろう。

問題は広がりやすいという現象を考察することである。

因果関係、相関関係などは、通常応用や問題解決を目的としていると思われ、それらの方法によって探究される理の道筋は、可能な限り明快に綺麗に整頓されていた方が訴求力がある。

考えることは本来限定的であるのだが、これらはことさら無駄な(論旨に無関係な)要素を排して整頓された道である。

現象と論理というと、昨今花盛りの統計学、データサイエンスが連想されるが、残念ながら筆者は不勉強でありこれらについては何も語ることができない。

単なる印象で申し訳ないが、まずは非常に限定的なデータ、事実、ファクトが先にあり、それらをいかに、どのような装置を用いて読み解くかという点にこそ、本質を解く鍵がある、そのような考え方であると筆者は把握している。

問題が先か、事実が先か。

これは思ったよりも難しい問題であるように思われる。

或いは、問題にならない問題である可能性もある。(その場合もまたそれはそれで問題である。)

これ以上堂々巡りを繰り返す前に筆者の結論を述べよう。

問題は、広げることに目的があるのでは必ずしもないが、まずは広げなければそこにその存在自体見ることができない。

ただ、問題の持つ力を押し広げることにだけ注力しすぎると、そこにある問題とは一見無関係で逆方向に向いた要素が見えにくくなる。

問題を力学的に表せばそのようなせめぎ合いとして表現できるのであるが、そう、そこでは力もしくは動きの存在を無意識に前提としている。

これに対しデータを尊重する先のような立場は、存在論的な世界の捉え方であろう。

印象論で直感的に語ることには何も意味はないかもしれないが、今回筆者に言えるのは以上である。

問題を広げまいとするならばそうせざるを得ない。

これは、世界を点(データ)の集まり(もしくは散らかり)と捉えるか、力のバランスと捉えるか、もしくはそれ以外の何かであると捉えるか、のn項対立であり、選択という意志と行為の問題である。

ここで再び問題を加えてしまったが、実はこれこそが哲学の問題ではないだろうか。

テーマという意味での問題でもあり、欠点という意味での問題でもある。

問題の普遍性、或いは本質の想定という、哲学の前提が内包する問題。

乱暴に言い表せば、哲学という営為の持つ暴力性であるとも言える、のかもしれない。

これもまた新たに創出した無意味な問題であろうか?

やはり限定性という考え方を取り入れる必要があるのであろうか?

次回への布石として言えることがあるとすれば、問いという意味での問題、良くない欠点という意味での問題、未知(わかっていない)であるという意味での問題、そして単なる対象物という意味での問題など、問題という言葉の持つ意味と可能性は広いということである。

一旦筆を置く。