点線のブログ
線とは何か。
数学の話ではない。
しかし援用はするかもわからない。
この問いはこのブログの今までの流れからすると唐突な話題に思われるかもしれないが、そんなことはないのである。
概念はいかに形成されるか。
大きすぎる問いだが、そこで分類という作業はやはり欠かせないと思われる。
対象から何かの特徴を抽出し物的な存在から分離する作業。
このような作業によって得られるのが概念であり、従って概念とは形のないものである。
しかし果たして本当にそうであろうか。
もっと言うと抽象とはなんであろうか。
しかし筆者の今回の着眼は線にあった。
それは線でなければならないのか、面ではないのか、点ならどうか、いっそのこと図で良いのではないか。
問いを決定する以前の段階にあると思われる疑問もある。
面とは空間である。
線とは動きである。
点とは存在である。
図とは世界である。
乱暴にイメージしてみるとこうなる。
それぞれに姿形があるではないか、これらのどこが抽象と関わるのか?
と言う批判はもっともである。
インターネットのどこかで読んだ無と有の問題にも関係してくるかもしれない、なぜならばこれらは、ある、に限定した思考だからである。
ない、は確かに魅力的だ。
と、筆者は思う。
思考は存在し、概念は動き力を備えることが可能で、よって抽象は生きている。
いくらでも話は広げられた。
否定としての「ない」と、ただの「ない」は異なる。
よって「ない」は「ない」としてしか表現され得ない。
と言うことで冒頭の疑問は消滅してしまった。
果たしてそれで良いのか?
「ない」もまた、「ある」から「ない」を取り出した、影の形に過ぎないのではないか?
「ない」もまた、線を描き空間を表象し、世界を形成して見せるのではないのか?
そうだとしたら「ある」との違いはどこにあるのか?
存在しない。
動かない。描かない。
世界がない。
と言うことを描くと言うことは矛盾にはならないのか。
描く主体と描かれる世界との関係性はどうなるのか。
今回は矛盾だらけ、借り物だらけである。
そろそろ書物を紐解くべき時なのかもしれない。
と言う敗北の旗を掲げて何か譲歩という消極的な勝利を収めた雰囲気を醸し出そうとしているのか。
全ての問題は既出であるとよく言われる。
いな、問題ではなかったかもしれないが、とにかく全てはもう既に行われている。
新しいものなど何もない、と。
固有であるとか個体であるとか土着であるとか救いはあるように見えるが、何か虚しい。
時間とは何か空間とは何か、という類の哲学的な問いなどは既に科学に回収されてしまっているようでもある。
話を戻そう。
線である。
形からそうでないものを分離する時、どのような動きが見られるか。
そもそもそれは動きなのか。
例えば生命を例に取ってみよう。
人間から生命という概念を形成する。
勿論、人間という生命現象を物理的に取り出すことは不可能だと思われる。
人間というものをそこに置く他に、それを表象することはできない。
小さく細かく分けて行って、物質の究極の姿を原子に求めるような、そのような方法もあれば、遺伝子がほとんど全てを決定するという思考方法もある。
しかしどちらも原理に遡ろうとする思考方法であることには変わりなく、原理(の探究)という概念を応用、実践しているだけである。
そう、概念の実践。それが動きなのではないだろうか。
再び線を見失った。
もはやトピックが線である必要性すら疑わしくなってきた筆者である。
線のないブログ、というところにオチをつけて今回は筆を置くこととしよう。