世代を知るということ
世代について語ろうとする時、参照すべき代表的な資料を読まずにそれをしようとするのは無謀であろう。
なぜなら筆者は自分が産まれ育ち今があるその時代しか「知る」ことはなく、他の時代については「知らない」のであるから。
それでも敢えてそれをしようとするなら、やはりここは原理に近づくしかないのである。
さて、我々が普通行うのは世代間の比較である。この世代がこうであるのに対してこちらはこうだと。この点についてこの世代はこうだったが今はこうだと。
基準のない比較などどのように可能なのかと思えるが、基準は任意の(大概は自分の)世代に設定するのが一般的であろう。
こうして世代論というのは比較の比較の比較、、、と比較を積み重ねて、連ねて、出来上がって行くものなのではないか。
そこに付随させられる歴史的な背景が正確であればあるほど説得力は増すのであろう。
(ここで注意すべきは、純粋な歴史学となると話は変わってくるという点である。歴史学は人間ではなく資料に基づくものであるから、事実を対象としているということが出来る。)
それでは、比較の比較の比較、、における弱点は何か。
徐々に変化して行く世界のある一定の期間を生きる人間を尺度に、時代の価値観を語ろうとすることではないだろうか。
そう、脈々と連なるものを切り分けて特色付ける行為。
しかしそもそも、対象は人間なのである。物ではない。
人間が対象であるのに、「知る」ことによってしかわかり得ないということ。
そこが重要に思われる。
では「知る」ことによって何が起きるのか、本当に「知った」ことになるのか。
“他者”というのは聞き慣れ過ぎたた流行りの過ぎた単語のように思えるが、人間を人間が知るとはそもそもどのようなことなのか。
一旦筆を置く。