認め合うということ
認め合うということは、同質性の確認ではなく異質なものの発見と学びだと常日頃考えているのだが、同じだと思っていたものが違った時や違うと思っていたものに同じものが含まれていた時の方がその認識が深いのではと感じることがある。
ただ問題は、その際その認識は条件反射的な回避に阻まれ自覚された認識までは到達しないことである。
同質性というものがイコール普遍性であるというように、世界地図の唯一の構成要素である場合、それは顕著に思える。
脱却し難いもしくは長期間に渡って続くような人間関係においてはそもそも関係性自体のダイナミクスが人格自体を凌駕するようなウェイトを占め始めるのでもはや意識されないかもしれないが、表面的なつきあいであったりSNS上の目には見えないコミュニケーションとディスコミュニケーションにおいては、同質性と異質性は第一義的に重要な条件となる。そこでは無意識のフィルターにかけられた情報しか情報として計上されない。
ではそのフィルターにかける行為は、どうすれば変化させることができるのだろうか?
姿形を変えたり内実を偽ったり独自のフィルターをこしらえ代替として提案する方法は考えうる。
また、そのフィルター自体を物理的な対象として捉え、桁外れのサイズのオブジェクトを持ち込んだり大量のノイズをフィルターを通すこともできる。
もっとわかりやすい表現があるのならマーケティングの本の数冊くらい容易にベストセラーランキングに載せられたか、もっと単純にプチ成功者に成っているのかもしれないし、そもそもインターネット上にそんな有益なアイデアを無料で掲載したりもしないだろう。
しかし私はここで、収入に繋がるようなリンクを踏ませたり読者に問いかける形でお茶を濁したりしたいとは思わない。
また、学術的であったり衒学的であろうとする意図もないし、暮らしやこころに役立つ情報を配布したい訳でもない。
ここで唐突に冒頭に戻るのだが、同質性もしくは異質性というその尺度自体の妥当性はどうなのか。
もっというとカテゴライズするという行為はどこから来たのか、なんのためにそれはなされるのか。
思考における生産性のため?(単なる生産のための生産?)
すぐには答えられない疑問である。
世の中を、そして世界を単純化して掌握したいという欲望の結果にすぎないのだろうか?
だとしたら、複雑さを可能な限り複雑なままに捉えるべきだとする立場とは対立するだろう。
ここでいきなり飛躍するのだが、人間は人間である限り、人間と対立せざるを得ない。
言うまでもなく同質だからであり、そして他者性(異質性)において他者に対して権力を持つからである。
いきなり大きな言葉を並べたがこれが現在の自分の実感である。
(続く、かもしれない)