生まれることと死ぬこと
生まれることは創造に例えられ、創造は生むことに例えられる。
死ぬことは消滅であり、忘却されることである。
生きるということを極論するとそのふたつについて考えざるを得ないというのが通常であろう。
だがそのふたつしかないと考えるのは妥当であろうか?
ここで少し場違いではあるがある例を用いてみよう。
音楽活動には大きく分けて演奏と作曲がある。
作曲がなければ演奏はなく、演奏がなければ楽曲は存在できない。(このふたつを同時に行うのが即興演奏であるがそれについてはまた後日。)
さて、ここでこのような書き方をするとこのふたつが、互いに強い磁力で結ばれた点同士の関係にあるように見える。
果たしてそうだろうか?
ふたつの(もしくはそれ以上の数の)事象において、それぞれの必然性が他方にあるという現象。
これは考えることにおいては、目眩しにもなり得るのではないか。
生きることに話を戻せば、生物の細胞は日々代謝を繰り返しており、老化も徐々に進むものであるから何も一気に生から死へとひとっ飛びに移動するわけではないと、そのような説明が返ってくるかもしれない。科学的な事実としてはそうであろう。
ただ、人間の実体験、実感、もしくは意識においては。
生まれることは唐突であり、死もまた突然に起こる。
ではこのような関係に紛れ込み得る他の要素はないのであろうか?
音楽に話を戻すと、演奏には演奏の技術、作曲には作曲の技術がある(と想定されている)。
いわば誰にでも共有可能な知的財産である。
だがそれらを突き詰めようとするだけでは技術の沼に陥り、他の何も見えては来ない。
他の何か?そんなものはあるのであろうか?
生きる技術、死ぬ技術についての語りや言葉は溢れているが、なぜ多くの人が破滅的な行為に走ったり自滅する道を選ぶのか。
思うに、そのような場合、生と死を不可分なものとして捉えていて、生きる技術(一方における一点)にこだわりすぎているからではないのか。
確かに生を終了させるには死を選べば事足り、新たな生を始めるには生殖行為を行えばよい。
少しわかりやすく言ってみれば、循環の中で芽生える何か。
循環などという言葉を使うとエコロジーや仏教の影響を感じなくもないが、わかりやすい言葉を選ぶというならこれになるかもしれない。
もっと言うとその輪を一旦離れること、それが大事である。
と、なにか処世術や人生訓のような言葉遣いになってしまったが、要は二点の必然的な繋がりの線を緩めたり、部分的に留めたり、時には切断したり、跨いでみたり、というような作業が有益ではないかという話である。
点と点を強く結んでしまうと一本道しかそこには見えなくなり、逃げ場がなくなる。道を広げたところで(技術を極めても)風景がさして変わらないように。
点であることは悪いことではない。
それを闇雲に他と結ぼうとしたり深く掘ることだけが有効ではない。
軌跡は後からついてくる。
なにも焦ることはない。
ふたつの点を結ぶ線とは並行でない、もしくは相容れない矛盾を抱えることは、生の証明でもあろう。