ゴールのないヴィジョン
私がこれまで書いてきたことは、ゴールのないヴィジョンなのではないかとふと考えた。
学術では人は細部に分け入りそれによってその成り立ちを明らかにしようとする。
そこでは対象がなんであろうと細分化された何かに特権的に光を当てるということ自体が営為と同一視され自己目的化する。
その営為がどこへ自らを導くのか、そこには答えがないままに、偶発的に、応用へと雪崩れ込む。
そう捉えてみると私のやってきたことは学問とは遠いところにあり、事実との関係が曖昧な単なる思い付き、単なる感想、単なるエッセイ、そう断罪されるかもしれない。
しかし私がこれをやめることはないだろう。
なぜならなんだかわからないものをそのまま捉えること、細部の選択を未然に残したまま全体を任意の形に整えること。
それが私の目論みだからである。
学術的なやり方に心地良さと正当性を感じる人々からは反感を買い敵意を向けられ侮蔑されるかもしれない。
つまらないと思われることもあるだろう。
また、ただあるものをそのままに、世界と自己を背景化する、そのような立場ともこれは異なる。
なぜならそこにはただの既視感しか作用していないからである。
例えば今というこの時を細分化してみよう。
空は明るくなり青々として、鳥が鳴いており、人々の生活音が徐々に増えて行く。
空、色、時間、生物、人間、身体、などなど観点はいくらでも選択可能であり、また、それらのいくつかを組み合わせて統合することもできよう。
朝があって私がいる、もしくはいない、でもない。
朝があるかないか、でもない。
朝が何を暗示するか、でもない。
この朝とあの朝の違い、でもない。
このように問題提議とその答えは過剰にそして陳腐に陳列されている。
それに対して私は、「この朝」という今はない、と考えるかもしれない。
そして「朝」と、もしくは「今」と、声に出して読んでみるかもしれない。
そこでは何か自然に応答してくるものがあるかもしれない。(対話という意味ではなく)
ではこのような私の方法は無効なのであろうか?無意味であるのだろうか?
そうかもしれない。少なくとも無意味だと感じる人々にとっては。
しかし私の方法は強固だ。
繰り返すと、それは内容を、細部を明らかにすることとは違う。既視の過去へと陳腐さに葬ることとも違う。
そして方法の提案でもない。
方法という方法を通して世界を提示すること、とは言えるかもしれない。
我々は世界でない世界にいても良いのですよ。
我々は我々でなくても良いのですよ。
我々は存在に意味を付与しなくても良いのですよ。
我々は互いに違わなくても良いのですよ。
世に溢れているこれらの道標は皆、赦しの形式を掲げ無目的を装ったゴール、目的であり、人々を導くためのビジョンである。
それらは懸命に回避されなければならない。
少なくとも私はそう考える。
そのために、そう、強いていうならそのために。
私はゴールのないヴィジョンをここに、飽くまで記し続ける。