善と悪
善と悪は対義語だとふつう考えられているが、果たして本当にそうだろうか。
宗教的な価値観の体系が社会をくまなく支配している時代や場所においては、善と悪は対義語と言っても間違いではないのかもしれない。
しかし現代のこの社会においては、それらからは嗜好品と同様なくらいの重さしか感じられない。
例え犠牲者の存在があっても、だ。
時折目にする声高な正義の主張も、認知が薄いマイノリティを擁護するという立場の底上げの手段にすら感じられてしまう。
では善の対義語とはなんであろう。
筆者の頭に浮かんだのは死である。
善に捧げられ悪に供される犠牲としての死ではなく、事実としての死。
これらは分けられなければならない。
さらにいうと善と正義も分けられなければならないのかもしれないが。
話を戻そう。
カードのように軽く善悪は使われるようになった。
裏を出そうが表を出そうが大した問題ではない。
どちらにしても風のように、人を切って行くだけなのだから。
分断と言われる現代社会において、対義語が成立しないとはまたおかしな話ではないか。
グローバリズムとその裏。
資本主義とその面。
世は憎しみに覆われている。
では憎しみの対義語とはなんであろう。愛であろうか。
誰もがそれを探し求めながら憎しみを隠しもしない。
この世を覆う憎しみとはなんなのか。
ところで現代というのは常に最善だと考えられている。
現代も何も我々が生きられるのは今しかない。
これ、この今が、最善であると。
知の共同事業、善の積み重ね、悪の悔い改め、それらの蓄積が今であると。
我々は賢くなったのであろうか?
我々の社会はより良くなったのであろうか?それとも滅亡に向かっているのであろうか?
我々は生まれながらにして善い(性善説)のであろうか?
もとい。
物事には二面性がありそれらは分けられるものとして考えるというこの態度に、いかなる正当性がありうるか。
二に対し一を主張するのもまた然り。
そしてオルタナティブの提示を試みる三。
我々はただ生きようとし、善は待たれるが、しかし死は待ってはくれない。
ここで死になんらかの意味付けをしようとすれば、何かをそして全てを超えたように見えるのかもしれない。
筆者も善の対極に死を置くことで死になんらかの意味を与えてしまったのであろうか。
意味はいくらでも創出され得るし、また、それ故に破壊される。
やはり二元論から逃れられそうにない。