意味や重さで測れない価値はあるのか
意味や重さで測れない価値はあるのか。
一つのとっかかりとして構造という概念が浮かんだ。
価値が当てはめられる構造としては事物のヒエラルキーが考えられる。
ヒエラルキーは順序付けられた価値の体系であり、上位概念、下位概念の相互関係を基本とする。
構造などという言葉がすぐさま浮かんだ理由は、関係性自体の発見と認識、そしてその相互の論理性から自らの価値体系の正当性を主張する思考に触れ慣れているからかもしれない。
そこから価値を取り除けば関係性だけが残るが、昨今は関係性自体に価値を見出そうとする思考が強いような印象も受ける。
もしくは価値という概念自体を事象から取り除き現象だけに着目する哲学もあるだろう。その先には信仰の世界も垣間見えるかもしれない。
と、ここまでで既に、それでは意味や価値とはそもそも何なのかという問いが頭をもたげる。
更に言うと筆者はなぜ冒頭の一文のような問いに至ったのか。
おそらく、意味とその重みというものが、変化し続ける時代と共に変わっていくのを眺めながら、それでもなお意味や重さという考え方は残っており、時代の価値観を若干でも超越しているように思われたからかもしれない。
世界の像は変わっていっても、変わらない何かがある。
それは存在なのか?これも既出の概念である。
それは真善美なのか?これも同様。
それは心または意識なのか?
または言葉なのか?
検索すれば出てくる情報なのだろうか?
冒頭の問いを掲げた際、筆者はどこかで形に関わる何かを想起していたように思う。
意味や価値という言葉は、意味がある、ない、など重さと軽さを連想させる言葉であるが、形にはそれはない。
神羅万象、それだけのことかもわからない。
新しい概念や言葉の創出などここでできる訳もないが、手身近に既に存在する思考を手繰り寄せても回答が得られないどころか道に迷うだけである。
哲学や思惟の研究者になり先行研究を丹念に学習し解きほぐしたり着目して展開すればいいだけのことである。
筆者が目指す所のはそれとは少し異なる。
筈であった、つい最近までは。
では、抽象化された自分語りナラティブ慰撫がここでの答えなのだろうか?
ところで抽象化するという行為は、輪郭を描くことに似ている。
細部を捨象し、そして?
結論や解決策を出すことを目的とせず、描写するだけで、何かを達成しようとする。
意味を作ることはできなくても、形を描くことはできる。
抽象化された対象の姿を形に遺すこと。
ではどうやって形を獲得できるのか。
動くことによって観察される周囲との摩擦を測る?
逆に離れることによって凝固していく成分を凝縮する?
もしくはそれらを擬態する?
強い光あるいは弱い光にあたることによってできた影を観測する。
方法は様々であろう。
一義的な答えはここにはないし、意味の対義語として形という言葉を置いただけかもしれない。
本来形のないものである思惟を形作る。
というと言葉遊びのようだが、どうであろうか。
読者の求める何か、もしかするとあったかもしれない虚空に、間接的にでも働きかけることはできたであろうか?
筆者自身については、まだわからない。
だからこそこのような投稿を試みたのかもしれないし、問題が綺麗にスッキリと片付いた実感はない。
かといってここでこのブログを終了させ消滅することに積極的な意味を見出したいとも思えない。
では金銭や信仰や愛などより大きな存在、拠り所を求めて彷徨すればよいのか。
おそらく、問い続けること、そこにしか答えはない。
それが今回の結論である。
問うことすらできないと言うのであれば?
もしくは、問いが消滅してしまったならば?
問いのない世界へ移動するだけである。
もしそれが読者の求めるところなのであれば、それはここではないかもしれない。
重い腰をあげて、どこかへ移動すればよいだけのことであるし、おそらくそれはなされるだろう。
というとどこかで聞いたような、古本屋の匂いが漂ってくるかもしれないが、ひとまずそれでよしとする。