fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

価値と欲望

唐突だが筆者は、価値というものは絶対的に、つまり他との相対的な関係性に於いてではなく、自立して存在するものだと信じていた。

より正確に言えば、そのようなものこそが価値の定義であり、概念があるからには実在するものだと無意識に思っていたようだ。

だが最近、果たして本当にそうなのか、価値とは貨幣のように物的存在と呼応し合い実在を主張できるものではないかもしれない、むしろ逆方向にあるのかもわからない、と考えさせられるに至った。

そのきっかけは極めて単純なエピソードで、人間の消費行動の動機付けとなるのは価値に対する対価の支払いよりも、自らの欲望を満たすかその可能性の高い対象への投資であるケースが多いのではないかと思わされたことであった。

何を今更と思われる読者もおられるだろう。

 

無論、行動をその心理にまで紐付けて分析してその過程を注視すれば、そこに価値という幽霊のような形のない媒体は観察できるとは思われる。

また、ライフスタイルについてのエッセイや議論においては価値観という言葉が一般的になってもう久しいが、そこにおける価値感に至っては、商品の好みのレベルにまで物的な表象に置き換えられているようだ。

しかしそのような位置付けの「価値」は、筆者の考えていた価値とは異なる。

 

一旦整理しよう。

ここまでに浮かび上がった問題は以下である。

まず、価値とは自立して存在するものではなく、自然発生的な対価は期待できないという点。

そして次に、価値とは欲望が構成する理想という具体的な形の模造にすぎないのではないかという点である。

 

さて、価値と言えば西洋哲学の文脈で言えば、やはり真善美である。

一気に現代に近づけば欲望の哲学などもあるようだが、正直なところあまり魅力的なものではない。

現代という時代背景の分析なくしてそれを行うのは不完全であるとの批判もあろう。

 

筆者の関心は、いつどのように価値なる概念が物質的な様相を帯びたのかということになる。

貨幣を媒体とする経済の発達によってか。

資本主義の発展によって、欲望の対象が物的対象にとどまらずより抽象的な技能や能力にまで及び始めたからか。

 

否。いつどのように、ではなく、筆者の関心は、なぜ、にある。

歴史的事実の検証を経て答えを出すのは残念ながらこのブログの趣旨ではない。

 

余談のようだが価値という時、社会のそれと個人のそれは曖昧な対立関係で彩られているように思う。

それらが一致する時にのみ善(公益)が生まれるという考え方もあろう。

こうなると価値についての議論はイデオロギー、思想の問題にまで及んでくる。

 

ここで飛躍を恐れずに結論に至ろうと試みると、価値が物質的な様相を帯びた理由は、まず世界が存在すること、そして、世界が存在しないからである。

無数の受け取り手が存在する時、価値はもぎ取られ、そして、受け取り手がマイナスである時、つまり何らかの支出(労力や学習を含む)を強いられる時、価値はあっても受け取り手には何も残らない。

 

以上が今回の仮説である。