fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

自尊心について

人は自らの自尊心のためなら何でもする。

他人を傷つけるのは最も簡単で手っ取り早く安上がりな方法である。

それは生存本能など科学的なキーワードでは説明しづらいものである。

他人を傷つけるという言葉なら穏やかだが、実際は他人の心身の安全を脅かすような行為に及びそれによって自尊心の満足や性的快楽を奪い取ろうとする者もいる。

また、他人より優れている、つまり他人は自分より劣っているという何らかの証明がここにあると主張することで自尊心を保とうとする者もいる。

この方法は驚くほど社会に広く深く普及していて時に見えなくなるほどである。

なぜ人はそのようなことをしなければならないのか。

自分の存在意義に自信が持てないからであろうか。

または逆に、そのような方法でしか自らの価値を肯定されずに来てしまった者は、そこにしがみつき、一生そこに居続けようともがくことになる。

ならばこのようにしたためる筆者は違うと言うのか。

そう疑問に感じられる読者もいるかもしれない。

既にご存知の通り、筆者は知識の量の多さや論理の精密さで他人より優れていると主張しようとは思わないし、そうだとも全く思っていない。

そのことで誹りを受けようとも、ここは知識を授ける場所ではないので他に行ってくれと言うしかない。

自分を特別な存在である、そう感じさせてくれるものは世の中にはそうそうない。

現実の社会ではせいぜい商品やサービスの消費と利用によってその欲求は誤魔化されているか、ある程度満足させられている。

もしくは宗教の門を叩くことにより神の愛に目覚める者もいる。

今回のこのブログの中に答えはない。

これまで筆者は真摯に考えるところを記して来たつもりであったが、結果として残せたのは果たして何だったか。

読者の自尊心を満たすためにこれを続けて来たのではそもそもないが、そのような残滓すら残せたかどうか甚だ心許ない。

真の意味での問いかけがなされて来なかったのならば、これ以上このブログを続ける理由もまたない。

考える、問う、という営為が単なるサービスや商品とどう異なるのかその説明も考えてみるに困難ではあり、ビジネスや生活に活かせるメタ視点として一層のこと売り出せばいいのではないかと思わなくもない。そうすれば筆者の生活も潤い、社会的ステイタスも上昇し、経済的効果も発生し、いいことずくめなのかもしれない。

考えるべきこと、知った方がいいことは山のようにある。

社会を山分けにしてそれぞれが取り分を奪い合ってもそこに残るものは何もない。

当たり前の話であるが、奪い取るその主体としての自分の価値は自ら創出する他ないのである。

どこからか、ではなく、そこからであり、それは主体性という与えられた意志の権利を指すのではなく、客観性という奪い取る目盛を指すのでもなく、さて、何であろうか。

筆者には、まだわからないのである。

考えることは本来、価値とは無関係であるから。少なくともそうは言えるかもしれない。