アマチュアであること、技術を備えていること
唐突だが、自然とはアマチュアなのだろうか。とふと考えた。
それは単なる言葉のアヤなのであるが、世界(自然)を見つめ自己のために自然の改造を不断に試みる人はプロなのだろうか。
などというと汎神論や神道などの宗教が思い浮かび宗教についての議論を持ちかけているようだが、そうではない。
人はまず自然を模写する。真似をし創造しようとする。そこにおいては完全を求める。が勿論完全ではないであろう。
自然は、病や災害や絶滅、もっと言うと死を、事故、失敗と見做すのであれば、完全ではない。
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では冒頭の一文で自分は何を言わんとしていたのだろうか。
もしかすると、技術を用いること、それも、先天的に会得した技術を用いることについて何か考えようとしたのかもしれない。
発達には全く疎いが、生きていて、体があり、感覚があり、動くことができ、探索することができることは、産まれながらに人が備えた技術であると思われる。それらが訓練と慣れにより向上し、改善され、失敗が減り、上達する。
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通常、技術という時、誰かがどこかで構築した方法論を学習によって自分のものとする、またはその開発。そのような技術がイメージされる。
そのような技術を備えていないものは、備えているものに比べて劣ったものと見做される。
生まれつき備わった技術は、それを技術と捉える人もあまり見受けられない。
専門的にはどうなのか不勉強なので知らないが、本能などという言葉はよく聞く。
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ある目的に特化して構築された技術を備えたもののみを洗練された技術の持ち主=プロであるとし、
それらに関して曖昧でぼやけた知識またはイメージしかなく努力をせず既存のありものを適当にいじるのみのものはアマチュアと呼ばれる。
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毎回のことで申し訳ないが今回も結論はない。
そもそもこの文章自体があまり論理的でない(論理という技術を用いていないか用いることに失敗している)ので結論がないのも仕方がないのだ。
反感を恐れずに書いてしまうと、おそらく、目的を持たない生まれつきの技術を私はもっと大事にしたいのだと思う。洗練よりも。
勿論ある方法や技術を極めて対象や自己を変形して得られるものは驚愕のレベルとなり生活を変えたりもする。
先に念を押しておくと、技術の奴隷になるな、そういうスピリチュアル的な雰囲気の話でもない。と思う。自信はないが。
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生きることに目的なぞ存在しないとはよく聞くフレーズだが、もしそうであるなら、目的に特化した技術以外の技術にももっと人は目を向けてよいように思う。
自然のように、ただある。あれれ、なにやらまたスピリチュアル的な空気が、、また次回にでも、このあたりは、考えて行かなければならない。