真善美についての覚書
ある日積ん読を消化しようと優先順位第一位の本を手に取り読み始めようとした時、
ふと、自分は何を一体読みたいのだろう?という疑問が湧いてきた。
真善美じゃないの、ということでその場は落ち着き、後日改めて考えて見たところ、
善と美については人々はそれなりのレベルの共通認識を有している。
では真は?真とはすなわち知のことであるのか。
高度な知は高度な知能を備えた人にしか理解することができない。
善と美に関してはその姿形態は多様であるがある程度は同様であろうが、真については一義的である上にスケールが長い。
ならば自分が真に近づくことがままならぬまま死んで行くという事実はどうなるのか。
ほんの一部の人々にしか到達できない知を、人類の叡智などと表現するのはどこかおかしくはないか。
なぜ自分は学ぶことを必要だと感じているのか、感じなければならないのか。
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さしあたっての答えとしては、世界の多様な見方を知り、より自由(固定概念から?)になるためだ、といういささか新しさに欠けるものしか思い浮かばない。
しかしそれは人の答えから写し取るという方法によってでよいのか、という疑問も残る。
今回はオチはない。
おそらく一生ない。
他人の知を借りて少しこの考察を深めることができた時が来るとすればその時、何が起こったと言えるのか、何か起こったと言えるのか、そんな時は来るのか。
あなたは誰ですか、私は誰なのか。
飛躍のしすぎである。
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おそらく自分は、上述のような知(固定概念を覆す知を得ること)しか今までに学んでこなかったのである。
単純に何かを知り、それらを関連づけることによって生まれる想像力や世界の存在を、知らなかったのである。
知るということが苦手であるがゆえに軽んじていたのであった。
知るということによって何かが変わるのであれば、それは試す価値があるような気がする。
ここでまた、変わるべきなのかそうでないのか、という疑問が出てきてしまうが、その答えは誰も知る由もない。
何を知るべきで何は知らなくてもいいのか、それもわからない。
そもそも人間の知という限定を免れない何かを得る目的として、有益であるということ以外に意味はあるのだろうか。
それともそもそも目的の問題ではなくて知る喜びという欲望の発動なのだろうか。
金銭を得たり感覚的な体験をしたりしたいと思うのと同種の。
ならば知るということに対してもっと自由であってもよい。
こんなに苦しまなくてもよい。
否、欲望とは人を翻弄し苦しませるものなのであるから、苦しんで普通なのであろう。
なるほど少しわかった気がする。
・・・・
知るという行為の主体性(?)にばかり目が行っていたが、その対象は世界である。
世界に興味がないかというとなくはない。
だが知の在り方についての興味、すなわち人間に対する興味の方が強いのかもしれない。
というのは完全な独り言である。