サイエンスと自己目的
自己目的化というものを自分は肯定してきた、つもりだ。
何も知らないという前置きをあえて無視して乱暴な考察を試みることを許していただけるのであれば
サイエンスが自己目的化してよい場合とはどんな場合なのだろうか。
(サイエンスは手段に過ぎないからという直感的な判断から、一足飛び(?)に別の場所へワープする行程には幾ばくかの違和感というかかすかな不安を感じる。時がある)
ここで脱線するところが自分の限界そのものなのだが、今思える限度において思考してみると
サイエンスが手段に過ぎないとからといって
サイエンスが救済にはなり得ないとは言えないということである。
すなわち
Just because science is merely a means, may be among many/a few others,
I do not conclude that science is totally powerless when something is at stake.
ということになるのか。(英語にかなり不安あり)
つまるところ何が言いたいのかというと
自己目的化することの合理性ということなのかもしれない。
合理性自体がロジックそのものであり、それこそがサイエンスであるなら
やはり同語反復であり循環論法は避けられない。
ということになるのか。
堂々巡りのようではあるが
同心円を幾つか、複数描けたように思えるのだが
まだ不明瞭ではあるし、雑文であるし、もしかすると言葉遊びというか概念をいじっているだけなのかもしれない。
素材のないところで空論しているだけなのだろう。
かもしれない。
そうでないといい、そして/またはそれでもいい
そして曖昧に訪れよ眠りよ、足音などわたしの振りまく寝息の前身とそして朝まで続く歯軋りと
願わくば打ち消しあひたまへ
〈完のような仮〉