fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

心があるという結論

心があるという結論に、誰か耐えられる者はいるのだろうか。

感情とは理性と同様に扱えるものなのであろうか。

巷に出回るブログなどではルサンチマンや社会現象を当事者目線で上手い具合に切り抜き、その形によって読者にすんなりと了解を与えることに長けたものも多い。

分析されて整理され気持ちが前に進めるのであれば、それは何にせよ良いことのように思われる。

そもそも心があるという結論は、なんの論拠も必要としない。

嫌というほどそれを味わって生きているのが人間だからだ。

内臓にメスを入れられるのが傷であるように、心にメスを入れられることは耐え難い。

しかし同時に人はそれをどこかで望んでもいる。

恋愛や葛藤、争いや憎しみなどは、感情の中でもわかりやすく強い性質のもので、ハウツーやマニュアルや聖典によって御し易くすら思える。

厄介なのは文字通り訳のわからないその他の感情である。

感情ではない筈の何か、信念や判断なども、知らず知らずのうちに感情の影響を受けていることが多い。

 

では、考える対象としてこんなにも相応しくない感情という代物を、なぜ今筆者は、話題にしなければならないのか。

冒頭に戻ろう。

感情に理由は必要ない。

原因があるのみである。

赤ん坊の快、不快や、天候によって変わる気分などは、そのわかりやすい例であろう。

だからこそ感情を動かそうとしたりはたまたコントロールしようとしたり、真の原因の部分にすり替えるようにより直接的に他者の感情の動きを操ろうとする術が存在し、それらは立派なビジネスの部分を占めているようだ。

物語、フィクションもまた、そのような例に含まれるだろう。

このように、何かの原因で生まれた感情は、さらに感情自体の影響を受けて強くなったり弱くなったり変化しながらコントロールの範疇を超えて行く。

また、感情に名前や形を与えることのできる諸形態(文学、音楽などの芸術)も存在する。

しかし、これらの術では満たされ得ない感情を担いうる場がある。

それが、感情のやり取りではないだろうか。

 

今筆者は、姿の見えない読者に向けてこのブログをしたためている。

いな、例え姿が見えたとしても、あなたの感情は目には見えない。

姿形が見えるだけである。

姿形、態度、表情や姿勢や声のトーンや言葉の選び方で人は相手の感情を察するしかない。

また、それらとは真逆の何かこそが感情である場合にも、同様である。

そしてアクセス数とアクセス時間以外の何もわからない筆者が今見ているのは、想像上の読者であり、理性的な言葉であり、そして限界である。

 

限界こそが、などと言うつもりは無い。取り立てて新しい言説でもない。

涙が溢れ続けることはできないように、人の感情にも許容できる量というものがあるのではないかと思われる。

それと同様に、ここにある限界というものに、筆者はある種心地よさを感じる。

もし不快に思われる読者が居られたら、既にここを去っているであろうし、それは仕方のないことである。

このブログもいつ筆を断つことになるかわからないが、この場を借りて感謝をしておきたい。

タイトルからは予想外の結論となってしまったが、それも姿の見えない読者への語りかけと言う形を取ったことから来る現象であろう。

 

 

価値(観)の共有について

疑いようがないとされている価値(観)の共有の範囲を拡大し、その価値のプライスを下げ普及させて世界を「善」なる下敷きの上に敷こうとする方向性とは真逆に、ニッチな価値観を提出しようとすることができるのもまた、価値の創出行為である。

前者は、歴史の流れの中で"標準的"だとされてきたもの(認識)のうち最新で最善の価値を世界に根付かせようとする試みであり、後者はそもそも標準的で最善であろうとすることを放棄した密かな試みである。

しかしながら、両者において共有という現象はなぜか大いに称揚される。

言い換えると両者の間には、共有という形態にどのような変化を与えようとするかという違いが見られるように思う。

共通、共有、共用、などの言葉には、ある特定のグループを属性によって分類し「全体」がマップ化された視野のなかで囲い込みが行われている空気がある。

囲い込みという言葉を使ったが、特に否定なわけではない。

基、最善は歴史が証明済であるという大前提に則るか則らないか、いやどちらにしても歴史の参照は必須ではないのか。

なるほどそれは否定し難い。

個々人が生きている現在という、歴史と比較すると相当短いスパンの中から判断できることなど何もないという立場が大勢であろう。

ただ、世界はただそこにある、そのままの姿で、というのも事実である。

そして人は常に囲い込みたがる。

だからこそ昨今の流行語に「ゆるふわ」などの言葉が登場するのであろう。

では、必要が発生した時に一時的な囲みを設定すればいいと考えてみたらどうであろうか。

セーフティーネットなどの考え方はそれにあたるかもしれない。

標準イコール最善と解釈するか、標準イコール最低(ニーズ)と解釈するか、若しくは世界は覆われないと考えるか。

そもそも世界という概念が覆うことは可能であるという前提の上に存在しているではないか。

ほぼ同義、トートロジーだと言ってもいいかもしれない。

世界以外に、何かあるのか?(世界がないという無は本当にあるのか?)

世界を世界で満たすという一見矛盾した行為に人々は耽っているのではないか?

 

知るということを知るということ

知るということが、精神に何がしか物的な実在を発生させるものであるとするならば、私は知るを支持しようと思う。

だが、もしそれが単なる精神の現実世界への拡張というような空間の問題として捉えられるならば、私は知るを支持したいとは思わない。

現実の世界と精神世界の関係に於いて、知るはどのようにあればいいのか、ありうるのか。

いうまでもないことだが、知より大きな括りで考えて真実という曖昧なものも、単なる概念でしかなく、もしかすると言葉でしかないかもしれず、そこらに落ちていたり販売されていたり譲渡されうる物体ではない。

しかし、知が発生するものであるのに対して、真実はもともと存在するものであるか、または存在しないものである。

その中身がなんなのか、どんなものなのか、それを記そうと人々は躍起になる。それを、知るために、そしてそれを知りたいと欲する人々のために。

この文章自体、知を求めているではないかという指摘もあろう。その通りである。

しかし、知が、上述のようにその本質的に獲得されるものである時、それをしないことをなぜ否定できるのか。

獲得しろという命令形は成立し得ない。

命令形が成立するのは、「これを獲得しろ」と目的語を備えている場合だけなのではないだろうか。

目的語を既に備えた知は厳密な意味での知とは言えないように思う。

 

 

 

 

 

 

善と悪

善と悪は対義語だとふつう考えられているが、果たして本当にそうだろうか。

宗教的な価値観の体系が社会をくまなく支配している時代や場所においては、善と悪は対義語と言っても間違いではないのかもしれない。

しかし現代のこの社会においては、それらからは嗜好品と同様なくらいの重さしか感じられない。

例え犠牲者の存在があっても、だ。

時折目にする声高な正義の主張も、認知が薄いマイノリティを擁護するという立場の底上げの手段にすら感じられてしまう。

 

では善の対義語とはなんであろう。

筆者の頭に浮かんだのは死である。

善に捧げられ悪に供される犠牲としての死ではなく、事実としての死。

これらは分けられなければならない。

さらにいうと善と正義も分けられなければならないのかもしれないが。

 

話を戻そう。

カードのように軽く善悪は使われるようになった。

裏を出そうが表を出そうが大した問題ではない。

どちらにしても風のように、人を切って行くだけなのだから。

 

分断と言われる現代社会において、対義語が成立しないとはまたおかしな話ではないか。

グローバリズムとその裏。

資本主義とその面。

 

世は憎しみに覆われている。

では憎しみの対義語とはなんであろう。愛であろうか。

誰もがそれを探し求めながら憎しみを隠しもしない。

この世を覆う憎しみとはなんなのか。

 

ところで現代というのは常に最善だと考えられている。

現代も何も我々が生きられるのは今しかない。

これ、この今が、最善であると。

知の共同事業、善の積み重ね、悪の悔い改め、それらの蓄積が今であると。

我々は賢くなったのであろうか?

我々の社会はより良くなったのであろうか?それとも滅亡に向かっているのであろうか?

我々は生まれながらにして善い(性善説)のであろうか?

 

もとい。

物事には二面性がありそれらは分けられるものとして考えるというこの態度に、いかなる正当性がありうるか。

二に対し一を主張するのもまた然り。

そしてオルタナティブの提示を試みる三。

 

我々はただ生きようとし、善は待たれるが、しかし死は待ってはくれない。

ここで死になんらかの意味付けをしようとすれば、何かをそして全てを超えたように見えるのかもしれない。

筆者も善の対極に死を置くことで死になんらかの意味を与えてしまったのであろうか。

意味はいくらでも創出され得るし、また、それ故に破壊される。

 

やはり二元論から逃れられそうにない。

 

 

 

奪い合いと有限性

奪い合う、それが世界だ。

これに反論できる者はいないだろう。

自分を犠牲にして他者に尽くし見返りを求める人もいる。

無関心を理由に我関せずで安寧を保つ人もいる。

誰が強者で誰が勝者なのか。

誰が弱者で誰が敗者なのか。

こんな議題はこのブログにそぐわないかもしれない。

思索が無効化される気配を早くも感じる。

 

強者弱者の所有物は量で測れる。

勝者敗者の判断は何者かによるジャッジメントを待たねばわからない。

 

ここで筆者の心理を吐露することで何かが起こるのだろうか。

違うであろう。

何かに対して抗議することで権利の拡充を図るのか。

無駄であろう。

 

関係性といえば昨今は距離感を持って接しろというドグマが甚だしくかまびすしい。

その主張は、近寄るな、という拒絶のポーズとどう異なるのか微妙なところである。

距離さえ保てれば良好な関係が保てるという結論のようだが、これも疑わしい。

見えないほど、聞こえないほど遠くからなら干渉がましい批判をすることは自由であるかのように事実は雄弁に語っている。

内心の自由表現の自由、その問題とも関係してくるかもしれない。

 

では距離感とは何なのか?

ネットやSNSで近づきすぎた関係性を無理やり離そうとする徒労にしか筆者には見えない。

挨拶もなくタイミングも構わず飛び込んでくる人格否定。

 

奪い合いもまた、無限の(またはそのように見える)リソースが無償で提供(または暴露)されることが当たり前のインターネット社会の発達と一見逆の方向性にあるようで無関係ではないかもしれない。

皆が欲しがるものは大体同じで、ニーズは集中し、希少価値には高い値が付く。それが顕在化した面もあろう。

 

無論、世界(というものが限定できるとして)の存在がある限り、それは有限であるし、無限に生きるなどということは自己矛盾である。

我々は生き物であるから(?)

ということになっている。

では無機物は無限に生きられるのかというと、筆者は不勉強で全くわからない。有機物よりは長命であるというくらいの認識しかない。

 

奪い、与えず、与えられる。

その方が良いに決まっている。

ではここでは何ができるのか。

 

何かを奪われたという時、所有物を無承諾のうちに一方的に取られ利用され、損をしたという状況が考えられるが、

そこに有限性という条件がなければ、話は変わるのだろうか?

筆者にはそうは思えない。

有限性は物理的な証左にはなるかもしれないが、実際に非難の声をあげているのは、自分が損をしたという損得勘定、損得に関わる感情ではないか。

お得感という言葉もある。

実際にそれが得であるかよりも、得をしたという感覚が生ずることが大事なのである。

 

ではどうやって生きればいいのか?

相手にお得感を与えながらその実奪い続ける。

何と有用な結論ではないか。

 

その際、お得感を演出するためには決して無限に与えてはならない。

そして少なすぎてもダメである。

 

もとい。

関係性を保つためには、いな、一対一の関係性を維持するためには、複数の繋がりを常に有効化しておかなければならない。

これもよく言われることだが、距離感説よりは説得力があるように思う。

実際は有効化なぞ行わずとも一対一の関係性は抽象的思考の産物であり、人が生きること、世界が存在することは、一ではない。

ということを踏まえると、人が有機的に生きるためには、与えられることに感謝をすればいい、、などと言い始めると世俗的な宗教、あるいは倫理じみてくる。

 

奪い合いの中でいかにサバイブは可能か。

もう十分答えは出たであろうか?

具体的にどのようにすればお得感や有り難みを与えながら奪い続けることができるのか、それを考えるのは企業家や経営者などの仕事であろう。

家庭の経営や個人の仕事などミクロな視点においても同様で、それぞれの資産や能力に応じてできることをやって行く他ない。

 

もちろん、個人の愛情も思索も有限である(物理的な証左)。

奪って来た相手に対して与えるほど愛もないのが普通であり、与えない相手に与え続けるほどの時間も余裕もない。

 

では持てる者から奪えば良いのではないのか。

と考えると政治思想の力学に足を踏み入れることにもなりそうだが実際は、持てる者に人は貢ぎ(お得感)、持たざる者は平気で踏みにじり利用する(搾取)。

いかにして持てる者になることができるのか、これはまた成長という呪縛に過ぎないのか、奪われ枯渇し滅亡しないための必要「悪」であるのか。

 

奪う能力や技能もまた問題になろう。

物理的に強奪すれば罪になるが、精神のそれはなぜか罪にならない。

また、何が提供されているのかを発見し見極める能力もまた、持てる者になるための条件だと思われる。

 

もっと基本的な問題として、何が必要なのか、何を欲しているのか、何が求められているのかを明瞭にできない限り、不毛な探究は続くように思われる。

何でもいいから奪いたいという態度も結果的には有効である場合もあろうが、リスクも増えて非効率(効率がこの思考の目的だとするならばだが)である。

 

傷つけることで一方的に奪おうとする者からは身を引き離し隠れ告発し、静かに豊かに与える者にだけ近づけ。

皆と同じ価値のピラミッドの表層にすがりつくことで強者に更に力を与えるな。

それが今回の結論である。

あとは読者自身の頭で考えてもらう他ない。

私とて与え続け奪われ続けるのは真っ平なのであるから。

 

価値と欲望

唐突だが筆者は、価値というものは絶対的に、つまり他との相対的な関係性に於いてではなく、自立して存在するものだと信じていた。

より正確に言えば、そのようなものこそが価値の定義であり、概念があるからには実在するものだと無意識に思っていたようだ。

だが最近、果たして本当にそうなのか、価値とは貨幣のように物的存在と呼応し合い実在を主張できるものではないかもしれない、むしろ逆方向にあるのかもわからない、と考えさせられるに至った。

そのきっかけは極めて単純なエピソードで、人間の消費行動の動機付けとなるのは価値に対する対価の支払いよりも、自らの欲望を満たすかその可能性の高い対象への投資であるケースが多いのではないかと思わされたことであった。

何を今更と思われる読者もおられるだろう。

 

無論、行動をその心理にまで紐付けて分析してその過程を注視すれば、そこに価値という幽霊のような形のない媒体は観察できるとは思われる。

また、ライフスタイルについてのエッセイや議論においては価値観という言葉が一般的になってもう久しいが、そこにおける価値感に至っては、商品の好みのレベルにまで物的な表象に置き換えられているようだ。

しかしそのような位置付けの「価値」は、筆者の考えていた価値とは異なる。

 

一旦整理しよう。

ここまでに浮かび上がった問題は以下である。

まず、価値とは自立して存在するものではなく、自然発生的な対価は期待できないという点。

そして次に、価値とは欲望が構成する理想という具体的な形の模造にすぎないのではないかという点である。

 

さて、価値と言えば西洋哲学の文脈で言えば、やはり真善美である。

一気に現代に近づけば欲望の哲学などもあるようだが、正直なところあまり魅力的なものではない。

現代という時代背景の分析なくしてそれを行うのは不完全であるとの批判もあろう。

 

筆者の関心は、いつどのように価値なる概念が物質的な様相を帯びたのかということになる。

貨幣を媒体とする経済の発達によってか。

資本主義の発展によって、欲望の対象が物的対象にとどまらずより抽象的な技能や能力にまで及び始めたからか。

 

否。いつどのように、ではなく、筆者の関心は、なぜ、にある。

歴史的事実の検証を経て答えを出すのは残念ながらこのブログの趣旨ではない。

 

余談のようだが価値という時、社会のそれと個人のそれは曖昧な対立関係で彩られているように思う。

それらが一致する時にのみ善(公益)が生まれるという考え方もあろう。

こうなると価値についての議論はイデオロギー、思想の問題にまで及んでくる。

 

ここで飛躍を恐れずに結論に至ろうと試みると、価値が物質的な様相を帯びた理由は、まず世界が存在すること、そして、世界が存在しないからである。

無数の受け取り手が存在する時、価値はもぎ取られ、そして、受け取り手がマイナスである時、つまり何らかの支出(労力や学習を含む)を強いられる時、価値はあっても受け取り手には何も残らない。

 

以上が今回の仮説である。

 

 

 

点線のブログ

線とは何か。

数学の話ではない。

しかし援用はするかもわからない。

 

この問いはこのブログの今までの流れからすると唐突な話題に思われるかもしれないが、そんなことはないのである。

概念はいかに形成されるか。

大きすぎる問いだが、そこで分類という作業はやはり欠かせないと思われる。

対象から何かの特徴を抽出し物的な存在から分離する作業。

 

このような作業によって得られるのが概念であり、従って概念とは形のないものである。

しかし果たして本当にそうであろうか。

もっと言うと抽象とはなんであろうか。

 

しかし筆者の今回の着眼は線にあった。

それは線でなければならないのか、面ではないのか、点ならどうか、いっそのこと図で良いのではないか。

問いを決定する以前の段階にあると思われる疑問もある。

 

面とは空間である。

線とは動きである。

点とは存在である。

図とは世界である。

 

乱暴にイメージしてみるとこうなる。

 

それぞれに姿形があるではないか、これらのどこが抽象と関わるのか?

と言う批判はもっともである。

 

インターネットのどこかで読んだ無と有の問題にも関係してくるかもしれない、なぜならばこれらは、ある、に限定した思考だからである。

ない、は確かに魅力的だ。

と、筆者は思う。

思考は存在し、概念は動き力を備えることが可能で、よって抽象は生きている。

いくらでも話は広げられた。

 

否定としての「ない」と、ただの「ない」は異なる。

よって「ない」は「ない」としてしか表現され得ない。

 

と言うことで冒頭の疑問は消滅してしまった。

果たしてそれで良いのか?

「ない」もまた、「ある」から「ない」を取り出した、影の形に過ぎないのではないか?

「ない」もまた、線を描き空間を表象し、世界を形成して見せるのではないのか?

そうだとしたら「ある」との違いはどこにあるのか?

 

存在しない。

動かない。描かない。

世界がない。

と言うことを描くと言うことは矛盾にはならないのか。

描く主体と描かれる世界との関係性はどうなるのか。

 

今回は矛盾だらけ、借り物だらけである。

そろそろ書物を紐解くべき時なのかもしれない。

と言う敗北の旗を掲げて何か譲歩という消極的な勝利を収めた雰囲気を醸し出そうとしているのか。

 

全ての問題は既出であるとよく言われる。

いな、問題ではなかったかもしれないが、とにかく全てはもう既に行われている。

新しいものなど何もない、と。

固有であるとか個体であるとか土着であるとか救いはあるように見えるが、何か虚しい。

時間とは何か空間とは何か、という類の哲学的な問いなどは既に科学に回収されてしまっているようでもある。

 

話を戻そう。

線である。

 

形からそうでないものを分離する時、どのような動きが見られるか。

そもそもそれは動きなのか。

 

例えば生命を例に取ってみよう。

人間から生命という概念を形成する。

勿論、人間という生命現象を物理的に取り出すことは不可能だと思われる。

人間というものをそこに置く他に、それを表象することはできない。

小さく細かく分けて行って、物質の究極の姿を原子に求めるような、そのような方法もあれば、遺伝子がほとんど全てを決定するという思考方法もある。

しかしどちらも原理に遡ろうとする思考方法であることには変わりなく、原理(の探究)という概念を応用、実践しているだけである。

そう、概念の実践。それが動きなのではないだろうか。

 

再び線を見失った。

もはやトピックが線である必要性すら疑わしくなってきた筆者である。

線のないブログ、というところにオチをつけて今回は筆を置くこととしよう。