fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

文脈と目的論について

思惟とは考えるという営為による形成物である。

...その材料は概念だが、概念は現実や現象から抽出されたものである。

という前提でさて、思惟における形成物とは何だろうか。

...という“なんだろうか”系の問いは脇に置き、今回はその評価基準について考えてみたい。

 

ありふれている方法だが、とっかかりとして文理の対比を用いてみよう。

サイエンスは真実の発見を目的としている。

対する人文科学も何かしらの発見ではあるがそれは客観的な真実との合致を必ずしも必要としない。

 

サイエンスにおいては真実というものは確かに存在すると想定されており、それを疑う人はいない。

つまり真実(の存在)という文脈は全員に共有されている。

それに対して人文科学は、人間の真実の発見という言葉でくくることは不可能ではないにしても、それ(人間の真実)は一義的ではなく、真実が置かれ得る文脈自体の創造という営為も同様に重要な位置を占める。

 

つまり、誰かが問題定義や新たな文脈の創造行為をしても、それが汎用性や重要性を持つかどうかが“真実”によって保証され得ないということである。

勿論、完全な独り言、独語になってしまっては解読すら不可能であるので評価の対象外となるが、それはさておいても、ある問題定義の独自性と、創造性=重要性(評価されるか否か)とはかなり微妙な関係にあるのではないかと思われる。

 

既に存在する長く太い脈絡(歴史)に自らの提唱する新たな文脈を連結するのが評価される手段としては一番の近道であるかと思われるが、直接的にはそれには繋がらないような問題定義は、その重要性も、独自性すらも認められ難い。

 

視点を変えて思惟の主体に近づいてみると、思惟とは概念を含む知識による体系の創造であると言うことができる。

よって概念や知識を数多く操り複雑化することを得意とする知能がその担い手と考えることができ、それがより評価されやすい思惟の在り方だと思われる。

 

ここで改めて冒頭の“なんだろうか”の問いを手繰り寄せてみると、人文科学においては概念の発見、自然科学においては観察対象を選び体型化した観察を行うことにより得たデータの、それらを統合し名付ける能力は、先の知能的な営みとは少し性質を異にするように思われる。

 

というと何やら我田引水的に結論を引き出そうとする雰囲気が唐突に強まる印象があるので、ここで止めよう。

何を止めるのか?

何かに自己の思惟を接続することを、であろうか。

ここでの話に限って言えば、どこかとどこかに繋げたから電流が流れるように正統性を獲得するというのは正しい論調ではないように思われる。

正しいデータや知識を用いて論理的な展開を行えばそれは誤謬ではないだろう、だが。目的論はさておき。

 

結局は真実も思惟も目的のための手段なように見せかけて、その実、自己目的化を可能にするような「価値」を内包しており、だからこそ評価されるのだ。

そこを厳密に分ければ目的論は別個のアイティム、文脈になる。

分けずに価値を匂わせることこそ知能の巧みさの為せる技である。

 

この世界の目的など誰にもわからない。

だがどこにそれを見い出すのか、それを声高に主張し得る文脈は、存在するように思われる。

方法がどんなものであっても。

 

 

真実と虚構について

この世の中を回している原動力はなんなのだろうか?

言うまでもなくそれは真実である。

なぜならば真実とは表の裏のそのまた裏のそのまた裏の、、、、を突き詰めたところに僅かだが強烈な光を放ちつつ隠されているものだから。

果たしてそうであろうか。

哲学者や科学者が突き止めた真実が世の中を動かしているというのは、本当であろうか。

この真実というものが仮に本当に存在すると仮定すると、虚偽は何の意味も為さないことになる。

ところがどっこい、世の中は虚飾や虚偽に満ちており、表面的にはそれらの力で動いているようにしか見えないではないか。

むしろだからこそそれとは相対する真実というものが希求されるのだ。

こうなると、一体どちらが真実なのかわからなくなるのが不思議なところである。

虚偽の裏に隠れてた真実か、真実を覆い隠す虚偽か。

鏡に映った虚像か、実物か。

果たしてどちらが真なのか。

 

真を求める動機を持つ人々は多い。

しかし何をもって真とするのか、それは人により異なる。

どこを見てそのような議論をするのか、それもまた重要となってくる。

 

人間の本質と真、果たしてこれらは手を繋ぐことができるのか。

その回路は?

そのなれ果ては?

その目的は?

あなたならどう答えるだろうか。

 

 

 

 

現実と虚構についてのメモ

人は現実と虚構の一致は求めておらず、虚構を虚構として宙に浮かせて眺めることを楽しむ。

その為、虚構を形作るためには現実からの距離が絶対的に必要であり、そこで距離とは時間的・空間的(量的)なものなどが考えられる。

創作においてもこれは同様である。

一方で、この距離の大きさ、ずらしの程度によって、創作の性質は大きく変わる。

少しずらせば現実を際立たせる造形が、大きくずらせば、、、どうなるのであろう?

素材を現実から借用することにおいては共通しているが、この飛躍は何を産むのだろうか?

神話や慣習などもこのような飛躍の造形物だとも言えるだろう。

ここで一気に話をずらすと、抽象におけるフィクションとはどのように可能であろうか?という問題にもつながる。

新年における挑戦のひとつとして覚書とする。

生まれることと死ぬこと

生まれることは創造に例えられ、創造は生むことに例えられる。

死ぬことは消滅であり、忘却されることである。

生きるということを極論するとそのふたつについて考えざるを得ないというのが通常であろう。

だがそのふたつしかないと考えるのは妥当であろうか?

 

ここで少し場違いではあるがある例を用いてみよう。

音楽活動には大きく分けて演奏と作曲がある。

作曲がなければ演奏はなく、演奏がなければ楽曲は存在できない。(このふたつを同時に行うのが即興演奏であるがそれについてはまた後日。)

さて、ここでこのような書き方をするとこのふたつが、互いに強い磁力で結ばれた点同士の関係にあるように見える。

果たしてそうだろうか?

ふたつの(もしくはそれ以上の数の)事象において、それぞれの必然性が他方にあるという現象。

これは考えることにおいては、目眩しにもなり得るのではないか。

 

生きることに話を戻せば、生物の細胞は日々代謝を繰り返しており、老化も徐々に進むものであるから何も一気に生から死へとひとっ飛びに移動するわけではないと、そのような説明が返ってくるかもしれない。科学的な事実としてはそうであろう。

ただ、人間の実体験、実感、もしくは意識においては。

生まれることは唐突であり、死もまた突然に起こる。

 

ではこのような関係に紛れ込み得る他の要素はないのであろうか?

音楽に話を戻すと、演奏には演奏の技術、作曲には作曲の技術がある(と想定されている)。

いわば誰にでも共有可能な知的財産である。

だがそれらを突き詰めようとするだけでは技術の沼に陥り、他の何も見えては来ない。

他の何か?そんなものはあるのであろうか?

 

生きる技術、死ぬ技術についての語りや言葉は溢れているが、なぜ多くの人が破滅的な行為に走ったり自滅する道を選ぶのか。

 

思うに、そのような場合、生と死を不可分なものとして捉えていて、生きる技術(一方における一点)にこだわりすぎているからではないのか。

確かに生を終了させるには死を選べば事足り、新たな生を始めるには生殖行為を行えばよい。

 

少しわかりやすく言ってみれば、循環の中で芽生える何か。

循環などという言葉を使うとエコロジーや仏教の影響を感じなくもないが、わかりやすい言葉を選ぶというならこれになるかもしれない。

 

もっと言うとその輪を一旦離れること、それが大事である。

と、なにか処世術や人生訓のような言葉遣いになってしまったが、要は二点の必然的な繋がりの線を緩めたり、部分的に留めたり、時には切断したり、跨いでみたり、というような作業が有益ではないかという話である。

点と点を強く結んでしまうと一本道しかそこには見えなくなり、逃げ場がなくなる。道を広げたところで(技術を極めても)風景がさして変わらないように。

 

点であることは悪いことではない。

それを闇雲に他と結ぼうとしたり深く掘ることだけが有効ではない。

軌跡は後からついてくる。

なにも焦ることはない。

ふたつの点を結ぶ線とは並行でない、もしくは相容れない矛盾を抱えることは、生の証明でもあろう。

 

意味や重さで測れない価値はあるのか

意味や重さで測れない価値はあるのか。

 

一つのとっかかりとして構造という概念が浮かんだ。

価値が当てはめられる構造としては事物のヒエラルキーが考えられる。

ヒエラルキーは順序付けられた価値の体系であり、上位概念、下位概念の相互関係を基本とする。

構造などという言葉がすぐさま浮かんだ理由は、関係性自体の発見と認識、そしてその相互の論理性から自らの価値体系の正当性を主張する思考に触れ慣れているからかもしれない。

そこから価値を取り除けば関係性だけが残るが、昨今は関係性自体に価値を見出そうとする思考が強いような印象も受ける。

もしくは価値という概念自体を事象から取り除き現象だけに着目する哲学もあるだろう。その先には信仰の世界も垣間見えるかもしれない。

 

と、ここまでで既に、それでは意味や価値とはそもそも何なのかという問いが頭をもたげる。

更に言うと筆者はなぜ冒頭の一文のような問いに至ったのか。

おそらく、意味とその重みというものが、変化し続ける時代と共に変わっていくのを眺めながら、それでもなお意味や重さという考え方は残っており、時代の価値観を若干でも超越しているように思われたからかもしれない。

 

世界の像は変わっていっても、変わらない何かがある。

それは存在なのか?これも既出の概念である。

それは真善美なのか?これも同様。

それは心または意識なのか?

または言葉なのか?

検索すれば出てくる情報なのだろうか?

 

冒頭の問いを掲げた際、筆者はどこかで形に関わる何かを想起していたように思う。

意味や価値という言葉は、意味がある、ない、など重さと軽さを連想させる言葉であるが、形にはそれはない。

神羅万象、それだけのことかもわからない。

新しい概念や言葉の創出などここでできる訳もないが、手身近に既に存在する思考を手繰り寄せても回答が得られないどころか道に迷うだけである。

哲学や思惟の研究者になり先行研究を丹念に学習し解きほぐしたり着目して展開すればいいだけのことである。

 

筆者が目指す所のはそれとは少し異なる。

筈であった、つい最近までは。

では、抽象化された自分語りナラティブ慰撫がここでの答えなのだろうか?

 

ところで抽象化するという行為は、輪郭を描くことに似ている。

細部を捨象し、そして?

結論や解決策を出すことを目的とせず、描写するだけで、何かを達成しようとする。

意味を作ることはできなくても、形を描くことはできる。

抽象化された対象の姿を形に遺すこと。

 

ではどうやって形を獲得できるのか。

動くことによって観察される周囲との摩擦を測る?

逆に離れることによって凝固していく成分を凝縮する?

もしくはそれらを擬態する?

強い光あるいは弱い光にあたることによってできた影を観測する。

 

方法は様々であろう。

一義的な答えはここにはないし、意味の対義語として形という言葉を置いただけかもしれない。

 

本来形のないものである思惟を形作る。

というと言葉遊びのようだが、どうであろうか。

読者の求める何か、もしかするとあったかもしれない虚空に、間接的にでも働きかけることはできたであろうか?

 

筆者自身については、まだわからない。

だからこそこのような投稿を試みたのかもしれないし、問題が綺麗にスッキリと片付いた実感はない。

かといってここでこのブログを終了させ消滅することに積極的な意味を見出したいとも思えない。

では金銭や信仰や愛などより大きな存在、拠り所を求めて彷徨すればよいのか。

 

おそらく、問い続けること、そこにしか答えはない。

それが今回の結論である。

 

問うことすらできないと言うのであれば?

もしくは、問いが消滅してしまったならば?

問いのない世界へ移動するだけである。

 

もしそれが読者の求めるところなのであれば、それはここではないかもしれない。

重い腰をあげて、どこかへ移動すればよいだけのことであるし、おそらくそれはなされるだろう。

 

というとどこかで聞いたような、古本屋の匂いが漂ってくるかもしれないが、ひとまずそれでよしとする。

 

技術とは何か

技術とは何かの目的や価値観に奉仕する行為の性質であると思われるが、通常は巧みであること、上手であることを指すことが多い。

今回は技術とは何かを考えることによって技術を高める方法論を少しでも開拓しようという技術的なブログである。

まず、技術という言葉は曖昧さに満ちている。

例えば幼子が歩くことを覚えるシーンを考えてみよう。歩くという技術の習得。

発達についての知識は皆無だが、想像するに、寝返り、ハイハイ、つかまり立ち、という段階を経て、そして歩行に到ると考えられる。

以前にはなかった歩くという技術を獲得する訳だ。

ここで逆に老人の例を考えてみると、なんらかの理由によって歩行が困難になる場合がある。

歩くという技術が衰える訳である。

しかしこのように、謂わゆる普通の人間なら誰でもできる歩行(移動という目的のための行為)は、技術だとは考えられにくい。

これまでには不可能であったことを可能にする行為、または行為の希少価値を指して技術と称することが多い。

付け加えると、それが複雑な仕組みによってできているほど技術の一般的なイメージに近い。

また、曖昧でないこと、精密であり再現が可能であることも技術の重要な側面であろう。

(続)

 

 

認め合うということ

‪認め合うということは、同質性の確認ではなく異質なものの発見と学びだと常日頃考えているのだが、同じだと思っていたものが違った時や違うと思っていたものに同じものが含まれていた時の方がその認識が深いのではと感じることがある。

 

ただ問題は、その際その認識は条件反射的な回避に阻まれ自覚された認識までは到達しないことである。

同質性というものがイコール普遍性であるというように、世界地図の唯一の構成要素である場合、それは顕著に思える。

 

脱却し難いもしくは長期間に渡って続くような人間関係においてはそもそも関係性自体のダイナミクスが人格自体を凌駕するようなウェイトを占め始めるのでもはや意識されないかもしれないが、表面的なつきあいであったりSNS上の目には見えないコミュニケーションとディスコミュニケーションにおいては、同質性と異質性は第一義的に重要な条件となる。そこでは無意識のフィルターにかけられた情報しか情報として計上されない。

 

ではそのフィルターにかける行為は、どうすれば変化させることができるのだろうか?

姿形を変えたり内実を偽ったり独自のフィルターをこしらえ代替として提案する方法は考えうる。

また、そのフィルター自体を物理的な対象として捉え、桁外れのサイズのオブジェクトを持ち込んだり大量のノイズをフィルターを通すこともできる。

 

もっとわかりやすい表現があるのならマーケティングの本の数冊くらい容易にベストセラーランキングに載せられたか、もっと単純にプチ成功者に成っているのかもしれないし、そもそもインターネット上にそんな有益なアイデアを無料で掲載したりもしないだろう。

 

しかし私はここで、収入に繋がるようなリンクを踏ませたり読者に問いかける形でお茶を濁したりしたいとは思わない。

また、学術的であったり衒学的であろうとする意図もないし、暮らしやこころに役立つ情報を配布したい訳でもない。

 

ここで唐突に冒頭に戻るのだが、同質性もしくは異質性というその尺度自体の妥当性はどうなのか。

もっというとカテゴライズするという行為はどこから来たのか、なんのためにそれはなされるのか。

思考における生産性のため?(単なる生産のための生産?)

すぐには答えられない疑問である。

世の中を、そして世界を単純化して掌握したいという欲望の結果にすぎないのだろうか?

だとしたら、複雑さを可能な限り複雑なままに捉えるべきだとする立場とは対立するだろう。

 

ここでいきなり飛躍するのだが、人間は人間である限り、人間と対立せざるを得ない。

言うまでもなく同質だからであり、そして他者性(異質性)において他者に対して権力を持つからである。

いきなり大きな言葉を並べたがこれが現在の自分の実感である。

 

(続く、かもしれない)