消費するということ
あるライブをユーチューブで見ていた時、自分が普段音楽を聴く態度は消費そのものなのではないかと咄嗟に感じた。
その理由は、第一に、音源・情報ともに、簡単(軽い労力)かつ短時間のコストで入手できるということ。
その音楽を知ったのはSNS経由であったので、そこに違いはなかったにも関わらず、何か違いをそこに感じた。
これは精神論だろうか?スピリチュアリティであろうか。
消費をどうぞ、と差し出され、消費されることを最大の悦びとするコンテンツ・カルチャーとでもいうべきものは(コンテンツの定義に関してはどこを参照すればよいのかまだ調べてもいないが)、何かを横に寄せて見えづらくしているのだろうか。
と、古典的とも思える退屈極まりないトピックを、初めて自分の問題として感じた。
仮にそこに何か現象があるとして、それを問題と名付けるべきかどうかすら、わかりはしない。
けれども。
ねむい。
こちらが消費の主体になるのではなく、こちらが消費されたような感覚と疲労感をかすかに覚えたのだ。
ボリボリと食い捨てるつもりが逆に食われた。
悦楽や快感や酩酊が残るのではなく、どちらかというと不快感に近いものがペタッと肌に張り付いたような。
街頭で執拗に追ってくるビラ配りのプロパガンダのネバっとした目線のような。
街ですれ違う、〈幸せそうなカップル〉や〈幸せそうではあるが大変そうな小さな子供のいる夫婦〉や、〈老後をエンジョイしている割と裕福な高齢者の買物の合間のお茶や立ち話〉などとは異質性を挟んで隔たっている。
異質という言葉もいい加減聞き飽きたのであるし、そもそもここに書かれたこの文章自体に何か消費的な臭がぷんぷんし始めたぞ、どうしてくれる。
〈続く〉