未知についての覚書
未知なるものは、こんにちは未知ですという顔を下げて現れない。
人は既知を参照して生きているのだから。
歴史的に見れば既出であり、新しくはなく、単に個人の無知に由来する「未知」の方が圧倒的に多いのだろうが。
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歴史は繰り返すというが、果たして本当にそうなのだろうか。
ぼんやりとした法則のようなものはあるかもしれないが、刻一刻と訪れるこの時が古いものだとは、やはり実感として受け入れられない。
幾千万回?繰り返される人の営みの反復。
それは同じものの繰り返しではない。
全く同一のものなど存在しない。
と考えると全ては未知であるということになるが、それは幾ら何でもありがちな夢見るポエムである。
反復というものが厳密には記憶と習慣に基づく幻想であったとしても、いやだからこそ、人は繰り返しを支持し保全しようとする。
反復は心地よい。コントロール可能である。平和と調和を連想させる。
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思うに何かを解釈する必要がある時、人は既知を参照するが、
圧倒的な出会いにおいてその参照は、参照されながらもどこかに隠れてしまい見えなくなる。
そしていつまでも見えない。
それに対して単に未知であるものは、見過ごされたり、顧みられない。
と考えると、やはり未知には、センスオブワンダーには、好ましい未知という含意があると思われる。
なにか肯定的で新たな意味をもたらすような。
もしくは、今まで知られていなかった美があらわになる時のような。
逆に言うと、好ましくない未知、既存の価値体系と矛盾するような未知には、あまり注意は注がれない。
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未知はどのような形態を取るのだろうか。
未知が捕らえられる時、それは形態において発見されることが多いのかもしれない。他との比較において。
形態といっても様々だが、やはり視覚的な形態が最も人を惹きつけるのではないだろうか。
思惟における新規性というものもあるだろうが、これも想像するとなるとどこか図式的である。
方法自体の新規性よりも、その結果として表現された形態の新規性の方が単純に目立つしわかりやすい。
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既知の価値体系に比較して心理的に許容範囲内の差異を表出しているもの。
それは比較的創出が楽なのではないかと思う。
いったん筆を置く。