fukakaのなにぬねのな

説明し難いと思っていたことが少し把握できたような気がしたら、とりあえず記事を書き積んで置きできればどうにかする場所の一端です。

見られているということについての覚書

自分が何かを見ている時、その自分もまた誰かに見られている。

というような表現はよく耳にする。

さて、誰かに見られるために自分の(一部を)提出する時、そこにある欲望は、見られている自分を見たいという欲望であると仮定しよう。

観測問題ではないが、見られるという事実によって何かが変容する。

では何がどのように変容するのか。

なぜそれを欲するのか。

問いを立てるまでに至らない、素朴な疑問である。

ここで宗教的な発想を抜きにして何かを語りうるとしたらどのようなアプローチがあり得るであろうか。

そう言えば、自分を見る自分、イコール自我(厳密にはこの言葉でいいのかわからないが)、というものもあった。

自我と、人に見られていることを意識することは、一人の人間の中でバランスがあるように思う。

と書くと脱線になるが、何かの手がかりになるかもしれないので書き記しておく。

(現代において自我が宗教的な発想と関連付けられて語られることはあまり見ない気がするが、漠然としたイメージでは、仏教ではその否定、キリスト教では神との契約、というように、かなり明確に主題として取り上げられているのではないかという気がする(宗教は人間の救済のためにあるのだから、当たり前かもしれないが。)。宗教と切り離された自我、或いは自己、というものは、何によって定立(?)されうるのか。つまり、一般社会において、人は自分というものを、何によって定義付けているのか。属性や能力か、関係性か、そのほかのなにかか、複合的な成り立ちか、興味深い。それはまた、存在や行為(生きるという営為)に意味を求めるという欲求と通じるものであるのか。と語るこの言葉は表現は、何のためにあるのか。問いは尽きないが、命は尽きて行く。文字通り、燃えて。)