世代を知るということ
世代について語ろうとする時、参照すべき代表的な資料を読まずにそれをしようとするのは無謀であろう。
なぜなら筆者は自分が産まれ育ち今があるその時代しか「知る」ことはなく、他の時代については「知らない」のであるから。
それでも敢えてそれをしようとするなら、やはりここは原理に近づくしかないのである。
さて、我々が普通行うのは世代間の比較である。この世代がこうであるのに対してこちらはこうだと。この点についてこの世代はこうだったが今はこうだと。
基準のない比較などどのように可能なのかと思えるが、基準は任意の(大概は自分の)世代に設定するのが一般的であろう。
こうして世代論というのは比較の比較の比較、、、と比較を積み重ねて、連ねて、出来上がって行くものなのではないか。
そこに付随させられる歴史的な背景が正確であればあるほど説得力は増すのであろう。
(ここで注意すべきは、純粋な歴史学となると話は変わってくるという点である。歴史学は人間ではなく資料に基づくものであるから、事実を対象としているということが出来る。)
それでは、比較の比較の比較、、における弱点は何か。
徐々に変化して行く世界のある一定の期間を生きる人間を尺度に、時代の価値観を語ろうとすることではないだろうか。
そう、脈々と連なるものを切り分けて特色付ける行為。
しかしそもそも、対象は人間なのである。物ではない。
人間が対象であるのに、「知る」ことによってしかわかり得ないということ。
そこが重要に思われる。
では「知る」ことによって何が起きるのか、本当に「知った」ことになるのか。
“他者”というのは聞き慣れ過ぎたた流行りの過ぎた単語のように思えるが、人間を人間が知るとはそもそもどのようなことなのか。
一旦筆を置く。
結論を出すということ
結論を出すためには、何が必要だろうか?
それ以前に、文章を通して何かについての理解へと誘うということはどのようなことなのだろうか?
前回の記事において私は、このブログの目的は細部の観察からではなくあるものをそのままに全体の形を整えることだと書いた。
しかしその後に続けた描写によって少し混乱を招いてしまったかもしれないと反省している。これを契機に少し考え直してみようと思う。
論理的に優れた文章、もっと言うと論理的だと思わせる文章に不可欠な要素は、細部における情報量とそれら情報同士のの凹凸関係の提示にあると筆者は考える。
まず、細部が細部たるにはそれが認識され名前が与えられることが必要である(情報)。
そして周囲とそれをつなげることによりその性質を明らかにしようとする。その際必要なのは凹凸で、情報を盛られたある現象・対象は凹凸の関係性の中に置かれる。
そしてその状況、関係性から法則性を抽出し、現象・対象において既存であるところのルールとして認識する。
さらにこの応用としてはこの法則を他の現象に当てはめる等、アナロジーによる適用範囲の拡大などが考えられる。
これを全て文章によって読者へと伝えるためには、論理の凹凸を情報を主語としてなぞれば良いのである。結論を出すということがこれに等しい。
さて、ここからが問題である。
これ以外の方法で、非論理的でない方法で、文章によって何かを伝えることはできるのだろうか?
断っておくが、文章とはここでは詩や小説などの文芸作品を除く。
論理性には細部が必要である。それには疑いがない。
もっというと俯瞰視する場合や極端に単純化された図式ですらその構成要素は細部であるとも言える。
そしてそれは事実と同一視され得る。
例えば、現代において地球の存在を疑う人はいない。
俯瞰した地球の姿を見ることに疑いを持つ人もいない。
そして、全ての人間の住処が地球であることは論理ではなく事実である(宇宙に人間がいなければの話だが)。
ここでは事実と論理が等価であり重なり合っている。
これはいうならば数学の定理のようなものではないだろうか。自明であるが故に見えづらい前提と重なるところが多いように思われるからだ。
詳しくないので間違えていたならばご指摘いただきたいが、定理の先にある数々の証明と計算には細部と全体の整合性こそが命である。
“どのように“人は地球に生きるようになったのか?に対する答えはいくらでも考えられ得るし、ある程度の正しさを持つ説として有力なものが今の学説となっているのであろう。
しかし、より根本的な“なぜ“、に答えられる学説はない(宗教を除くならば)。
このように、事実の存在の前提を論理とするか直感とするかで、だいぶ世界の見方は変わるのである。
どうであろうか。少しは説得力を持って論理を使わずに説明できたであろうか。
もしますます混乱が深まるだけであるならば致し方ないが他の方法も探る必要があるかもしれない。
しばし時が過ぎるのを待つこととしたい。
ゴールのないヴィジョン
私がこれまで書いてきたことは、ゴールのないヴィジョンなのではないかとふと考えた。
学術では人は細部に分け入りそれによってその成り立ちを明らかにしようとする。
そこでは対象がなんであろうと細分化された何かに特権的に光を当てるということ自体が営為と同一視され自己目的化する。
その営為がどこへ自らを導くのか、そこには答えがないままに、偶発的に、応用へと雪崩れ込む。
そう捉えてみると私のやってきたことは学問とは遠いところにあり、事実との関係が曖昧な単なる思い付き、単なる感想、単なるエッセイ、そう断罪されるかもしれない。
しかし私がこれをやめることはないだろう。
なぜならなんだかわからないものをそのまま捉えること、細部の選択を未然に残したまま全体を任意の形に整えること。
それが私の目論みだからである。
学術的なやり方に心地良さと正当性を感じる人々からは反感を買い敵意を向けられ侮蔑されるかもしれない。
つまらないと思われることもあるだろう。
また、ただあるものをそのままに、世界と自己を背景化する、そのような立場ともこれは異なる。
なぜならそこにはただの既視感しか作用していないからである。
例えば今というこの時を細分化してみよう。
空は明るくなり青々として、鳥が鳴いており、人々の生活音が徐々に増えて行く。
空、色、時間、生物、人間、身体、などなど観点はいくらでも選択可能であり、また、それらのいくつかを組み合わせて統合することもできよう。
朝があって私がいる、もしくはいない、でもない。
朝があるかないか、でもない。
朝が何を暗示するか、でもない。
この朝とあの朝の違い、でもない。
このように問題提議とその答えは過剰にそして陳腐に陳列されている。
それに対して私は、「この朝」という今はない、と考えるかもしれない。
そして「朝」と、もしくは「今」と、声に出して読んでみるかもしれない。
そこでは何か自然に応答してくるものがあるかもしれない。(対話という意味ではなく)
ではこのような私の方法は無効なのであろうか?無意味であるのだろうか?
そうかもしれない。少なくとも無意味だと感じる人々にとっては。
しかし私の方法は強固だ。
繰り返すと、それは内容を、細部を明らかにすることとは違う。既視の過去へと陳腐さに葬ることとも違う。
そして方法の提案でもない。
方法という方法を通して世界を提示すること、とは言えるかもしれない。
我々は世界でない世界にいても良いのですよ。
我々は我々でなくても良いのですよ。
我々は存在に意味を付与しなくても良いのですよ。
我々は互いに違わなくても良いのですよ。
世に溢れているこれらの道標は皆、赦しの形式を掲げ無目的を装ったゴール、目的であり、人々を導くためのビジョンである。
それらは懸命に回避されなければならない。
少なくとも私はそう考える。
そのために、そう、強いていうならそのために。
私はゴールのないヴィジョンをここに、飽くまで記し続ける。
生きることと知、技術について
ただ何もない、
世界がどうあるべきだ、世界はこうあるのだ、
どちらも確実性に欠けている、
我々に言えることはほんの少ししかないどころか、何か言わんとすること自体陥穽に陥っている証拠である。
ならば美しいところだけ、もしくは醜いところだけを凝縮して刺激物として娯楽のように摂取すれば良い。
自分を苦しめるものは遠ざけ、それでも付き合わざるを得ないものは上手くやり過ごし、些細な喜びは増幅装置を使って味わい尽くし、
淡々と日々のルーティーンを回し、そして視野の隅に空虚が入り込む。
そう、それは生きると言うことの技術を習得したことを意味する。
本来技術を身につければ世界は広がる筈だが、なぜここでは何かが逆に減って行くのだろうか。
それとも、力と力が打ち消し合うように、減っているように見えて実際は何かが増えているのだろうか?
いずれにせよ、そこには生きると言うことの幸福で不幸な自己目的化があり、全ては後付けの背景として人生の彩りとなる。
にも関わらず、何々にも関わらず何かを成し遂げた、など、所与の条件からの分離に光を当てる実例はありがたがられ、人生とその技術は常識程度の困難さであるという不思議な前提が暗黙のうちに共有されている。
なぜそのようなことが起こるのだろうか?
勿論、それは我々の生きている社会(と想定されているぼんやりとした限定)の質と無関係ではない。
文字通り今日を生きることすら困難な人々や地域の存在は悲しいほどに自明であり事実である。
しかしここでは特定の社会の性質について論じるのが目的ではない。
生きる技術を一旦習得したら我々は、その波に乗り続けて最期を迎えるまで何とかして持ち堪えようとする。
そしてそこで知性を使い果たすのだ。
ところで、知識人や大学人、研究者は学術とその周辺を生活の糧としており、今を生きる最高の、究極の知性はそこに宿っていると思われている。
身近なところでは生活の知恵やライフハック、最近のものでは集合知など、知の在り方は様々で名付けられもしているが、大学・研究機関が知の権威たるランドマークであることに変わりはない。(勿論、宗教のスピリチュアルな悟りや信仰も知に含めるならば、話は変わってくるけれども。)
ここで本稿のテーマがおぼろげに現れて来るのだが、それは、知と技術との違いと共通点である。
技術にはそれぞれの目的が外部にある。
知の目的は第一義的には知そのものである。
この比較から、生きる技術の自己目的化とはつまり、生きることそのものだということが言える。
生きる技術を習得して生きることに満足し埋没した時、高度な知という必要以上の知は不要となる。
それ以外の自己目的化できない技術は、経済的な利益や精神的な贅沢に対する欲求の充足に充てられるので、それらを習得することの動機づけは高い。
ではしかし、自己目的化できる知に対して自己目的化しない知もまたあると考えざるを得ないのは、どのような状況がそうさせるのであろうか。
他者を攻撃したり、矯正したり、啓蒙したり、社会をより良い方向へ導こうとしたりと、目的が外へと向かい張りつこうとする。
そこにメッセージ、主義主張が発生する。
本来、知にメッセージという目的、ゴールは含まれない筈である。
生きる技術のように目的が先に生まれているのならば後付けのメッセージは不要であるし、逆にその目的を無意味で無内容だと決めてしまえばメッセージ自体が意味を成さなくなる。
このように、知の技術という派手な存在を前にするとメッセージさえもが前後左右にウロウロと居場所を求めて彷徨い始める。
そう、主義主張は飾りのようなものなのである。
倫理とは?暴力とは?善悪とは?正義とは?それら各論を問い論じたとて、問題は変わらない。
それが現代の知というものの在り方なのではないだろうか。
そしてまた、知の在り方という時、そこには既に外部に向けられたメッセージめいた何かが潜んでいる、のかもしれない。
一旦筆を置く。
メッセージと主義、そして概念について 1
メッセージとは存在の動きに一定の方向性を与えんとすることであり、愛は、ヒューマニズム(ism)は、手堅く見落としを拾う。
だがここで注意しなければならないのは、メッセージが概念化されて主義となった時のその穏健さの丸みであり、不動の重みである。
それは戦いに使われて初めて勢いを得、認識を勝ち得る。
平和のための技巧や嘘の存在がしばしば奇異に映るのと同じように、目的を内包し得ない火球は互いに結合し成長し焼き尽くすことはできても、また生える意味と叫びを根絶させることはできない。
何者からも与えられていない何かを、対象はそのままに抽出や総括という技術によって生み出すこと、与え与えられるというプロセス、奪い奪われるという事件を経ないで生産を行うこと、それはほぼ罪に等しく扱われる。人は貸し借りをしなければならない存在である、繋がりの中にしか生きられない、そのような強いメッセージを否定するかのように見えるからである。
本当はそのような愛の成立以前に食い物が必要であるのだが、人権という概念は食うが満たされた後に強化されるものと捉えられているため、そこに齟齬が生じる。
いやもしかするとそれは同時に発生する繋がりであるかもしれない、食う食われる、貸し借り。
歴史的な背景に詳しければ、人権の沿革から無理なく結論を引き出すこともできようが、それがままらならない筆者は、こう言うことしかできない。
奪い奪われながら、貸し借りをしながら、自由であることは本来的に不可能であり、まさにその不可能こそが自由であると。
世俗的な自由はもっぱら制限を伴うものであり、それが無限であることはそもそもあり得ないからである。
そのような制限のない概念的な存在を、暴力的なほどに強いものだと勘違いする者も出るのは当然かもしれない。不完全ながらもそれ自体に於いて完全であるが故に憎まれ、装置的な何かだと誤解されることもあるだろう。
だからこそ概念を用いてなにかを行う時、人は注意深くあらねばならない。
何を行うか、何のために行うか、どのような影響を(意図なくしてだとしても)与えるか。
それはケースバイケースであり、具体的にこうすればよいというようなルールは、作為的にでなければ作ることはできない。
逆に言うと作為的にであれば作ることは可能なようにも思われる。
存在に具体的に奉仕するために。だがそれが正しいのかどうかはわからない。概念というものは、基準を持たないものであるから。
メタであることは、人を傷つける。
メタであることは、優位であることとは異なる。
俯瞰しているからといって俯瞰されたものより価値があるというのではなく、単に性質が異なる。
例えば他の学問、例えば統計学や検索機能なども俯瞰しているとも言えるが、それらは対象を直接取り扱っているために憎悪の対象とはなりにくいどころかむしろ逆で、対象に寄り添っていると好意的に捉えられることすらある。
メモを書き貯めた乱文であり思考も途上だが一旦公開することとする。
自尊心について
人は自らの自尊心のためなら何でもする。
他人を傷つけるのは最も簡単で手っ取り早く安上がりな方法である。
それは生存本能など科学的なキーワードでは説明しづらいものである。
他人を傷つけるという言葉なら穏やかだが、実際は他人の心身の安全を脅かすような行為に及びそれによって自尊心の満足や性的快楽を奪い取ろうとする者もいる。
また、他人より優れている、つまり他人は自分より劣っているという何らかの証明がここにあると主張することで自尊心を保とうとする者もいる。
この方法は驚くほど社会に広く深く普及していて時に見えなくなるほどである。
なぜ人はそのようなことをしなければならないのか。
自分の存在意義に自信が持てないからであろうか。
または逆に、そのような方法でしか自らの価値を肯定されずに来てしまった者は、そこにしがみつき、一生そこに居続けようともがくことになる。
ならばこのようにしたためる筆者は違うと言うのか。
そう疑問に感じられる読者もいるかもしれない。
既にご存知の通り、筆者は知識の量の多さや論理の精密さで他人より優れていると主張しようとは思わないし、そうだとも全く思っていない。
そのことで誹りを受けようとも、ここは知識を授ける場所ではないので他に行ってくれと言うしかない。
自分を特別な存在である、そう感じさせてくれるものは世の中にはそうそうない。
現実の社会ではせいぜい商品やサービスの消費と利用によってその欲求は誤魔化されているか、ある程度満足させられている。
もしくは宗教の門を叩くことにより神の愛に目覚める者もいる。
今回のこのブログの中に答えはない。
これまで筆者は真摯に考えるところを記して来たつもりであったが、結果として残せたのは果たして何だったか。
読者の自尊心を満たすためにこれを続けて来たのではそもそもないが、そのような残滓すら残せたかどうか甚だ心許ない。
真の意味での問いかけがなされて来なかったのならば、これ以上このブログを続ける理由もまたない。
考える、問う、という営為が単なるサービスや商品とどう異なるのかその説明も考えてみるに困難ではあり、ビジネスや生活に活かせるメタ視点として一層のこと売り出せばいいのではないかと思わなくもない。そうすれば筆者の生活も潤い、社会的ステイタスも上昇し、経済的効果も発生し、いいことずくめなのかもしれない。
考えるべきこと、知った方がいいことは山のようにある。
社会を山分けにしてそれぞれが取り分を奪い合ってもそこに残るものは何もない。
当たり前の話であるが、奪い取るその主体としての自分の価値は自ら創出する他ないのである。
どこからか、ではなく、そこからであり、それは主体性という与えられた意志の権利を指すのではなく、客観性という奪い取る目盛を指すのでもなく、さて、何であろうか。
筆者には、まだわからないのである。
考えることは本来、価値とは無関係であるから。少なくともそうは言えるかもしれない。
問題を広げることについて
問題は、広げようと思えばいくらでも広げることができるものである。
例えば、何故筆者はこのような問題を今回取り上げようと思ったのか(原因を探る方向性)
例えば、筆者の意図はどこに置かれていると想定して読み進めるべきか(読解力、またはコミュニケーションにおいて要請されると想定されているもの)
例えば、このステートメントのソースは何か(一般的に論理立った文章の構成要素と考えられているもの)
等々、問題は幾らでも考えることができる。
問題の定義とは何か、という問題すら考えることは可能で、あながち無意味でもないように思われる。
では今回の問題はどこに焦点を当てるべきなのであろう。
問題は広がりやすいという現象を考察することである。
因果関係、相関関係などは、通常応用や問題解決を目的としていると思われ、それらの方法によって探究される理の道筋は、可能な限り明快に綺麗に整頓されていた方が訴求力がある。
考えることは本来限定的であるのだが、これらはことさら無駄な(論旨に無関係な)要素を排して整頓された道である。
現象と論理というと、昨今花盛りの統計学、データサイエンスが連想されるが、残念ながら筆者は不勉強でありこれらについては何も語ることができない。
単なる印象で申し訳ないが、まずは非常に限定的なデータ、事実、ファクトが先にあり、それらをいかに、どのような装置を用いて読み解くかという点にこそ、本質を解く鍵がある、そのような考え方であると筆者は把握している。
問題が先か、事実が先か。
これは思ったよりも難しい問題であるように思われる。
或いは、問題にならない問題である可能性もある。(その場合もまたそれはそれで問題である。)
これ以上堂々巡りを繰り返す前に筆者の結論を述べよう。
問題は、広げることに目的があるのでは必ずしもないが、まずは広げなければそこにその存在自体見ることができない。
ただ、問題の持つ力を押し広げることにだけ注力しすぎると、そこにある問題とは一見無関係で逆方向に向いた要素が見えにくくなる。
問題を力学的に表せばそのようなせめぎ合いとして表現できるのであるが、そう、そこでは力もしくは動きの存在を無意識に前提としている。
これに対しデータを尊重する先のような立場は、存在論的な世界の捉え方であろう。
印象論で直感的に語ることには何も意味はないかもしれないが、今回筆者に言えるのは以上である。
問題を広げまいとするならばそうせざるを得ない。
これは、世界を点(データ)の集まり(もしくは散らかり)と捉えるか、力のバランスと捉えるか、もしくはそれ以外の何かであると捉えるか、のn項対立であり、選択という意志と行為の問題である。
ここで再び問題を加えてしまったが、実はこれこそが哲学の問題ではないだろうか。
テーマという意味での問題でもあり、欠点という意味での問題でもある。
問題の普遍性、或いは本質の想定という、哲学の前提が内包する問題。
乱暴に言い表せば、哲学という営為の持つ暴力性であるとも言える、のかもしれない。
これもまた新たに創出した無意味な問題であろうか?
やはり限定性という考え方を取り入れる必要があるのであろうか?
次回への布石として言えることがあるとすれば、問いという意味での問題、良くない欠点という意味での問題、未知(わかっていない)であるという意味での問題、そして単なる対象物という意味での問題など、問題という言葉の持つ意味と可能性は広いということである。
一旦筆を置く。